【展示の構成】
〔導入〕昭和年表 -前編 1926~1957-
1. 昭和の始まり -昭和初期-
2. 戦争の激化 -昭和10年代-
3. 戦後の佐賀
-昭和20年代前半-
4. 景気回復の中で
-昭和20年代後半~30年代へ-
〔関連展示〕あの頃、あの日の佐賀
主な展示紹介

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鳥栖町市街図、鳥栖商店案内 昭和5年(1930)
当館所蔵『秩父宮殿下御成関係』(昭和6年)に綴じられている資料です。 鳥栖町(現・鳥栖市)の市街地の様子が描かれた「鳥栖町市街図」には、鳥栖駅の線路や機関庫のほか、片倉製糸所などが記されています。この図が作成された15年後の鳥栖空襲では、駅の鉄道施設や駅南の藤木町付近、市街図北東部に描かれている日清製粉鳥栖工場一帯などが空爆を受け、藤木町には巨大な爆弾池(爆撃によってできたクレーターが池となった)が多数残りました。
裏面の「鳥栖商店案内」には、商店や販売されていた商品などが記されており、昭和初期の佐賀の人々の暮らしの一端を垣間見ることができます。 |

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佐賀県立佐賀農学校満鮮地方修学旅行日程表 昭和13年(1938)8月
昭和13年9月、佐賀農学校(現・佐賀農業高等学校)の生徒約45名が、修学旅行で満州(現・中国東北部)及び朝鮮半島を13日間かけて巡りました。当時、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が行われており、同校の卒業生もすでに渡満していたことから、この修学旅行においても、生徒の渡満への関心や意欲を高める目的で、満州事変の戦跡や朝鮮総督府、博物館、市街地のほか、炭鉱や工場、さらに卒業生のいる農園などの見学が行われています。 |

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佐賀県食糧営団昭和十七年度事業報告書
昭和18年(1943)3月31日
昭和17年3月、食料の確保と国民経済の安定を目指すため、食糧管理法が施行されました。これにより、中央食糧営団が設立され、佐賀県にもその下部組織として佐賀県食糧営団が設けられました。この資料は、同団体の事業報告書です。米穀の配給は通帳制度がとられ、その配給量は年齢や職業によって段階的に分けられており、11歳から60歳までは一日2合3勺(330g)が一日あたりの配給量でした。事業報告書には、食糧事情が厳しく米麦だけに頼ることが難しいため、小麦粉、乾麺、芋や豆などの代用食を含んだ配給を行っていることが記されています。 |

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佐賀県災害特報
昭和28年(1953)
戦後復興の歩みの中で、県内は風水害に幾度も見舞われています。特に昭和28年(1953)6月25日から29日にかけて北部九州を襲った集中豪雨の被害は甚大で、松浦川、嘉瀬川、牛津川、六角川、城原川など県内の主要河川で堤防が決壊し、その浸水面積は県総面積の21%に達しました。通信網は途絶し、国鉄長崎線、佐世保線、唐津線(現・JR長崎本線、佐世保線、唐津線)が不通となったほか、鍋島村、嘉瀬村(現・佐賀市)や旭村(現・鳥栖市)などでは、約1か月にわたり浸水状態が続きました。この豪雨による県内の被害は、死者・行方不明者62名、重軽傷者336名、全半壊および流失家屋997棟、浸水家屋75,948棟となり、被害額は249億円にのぼりました。
県文書広報課(当時)が作成したこの資料には、各地の被害状況や復旧作業の様子が写真付きでまとめられています。 |
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41期企画展「昭和の時代と佐賀 -前編1926~1957-」展示資料一覧 
(PDF:347.2キロバイト)
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企画展チラシ 
(PDF:1.51メガバイト)