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県指定(歴史資料の部)01

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佐賀県重要文化財(歴史資料)の部

   

佐賀県重要文化財 多久家資料及び後藤家文書(たくけしりょうおよびごとうけもんじょ)

昭和53年3月20日指定
多久市多久町 多久市郷土資料館
歴史資料 


多久家資料及び後藤家文書  多久家資料は、多久領主である多久家に伝えられた鎌倉末期から近世末期にいたる文書類、及び国文関係等の一般図書類である。
 また、後藤家文書は武雄後藤家に伝えられた文書類で、藤原太子解(仁安2年)後醍醐天皇綸旨(建武元年)関東御教書など平安末期から近世初期にいたる武家文書である。

 

 

佐賀県重要文化財 肥前名護屋城図屏風(ひぜんなごやじょうずびょうぶ)

昭和54年3月31日指定
唐津市鎮西町名護屋 名護屋城博物館
歴史資料


肥前名護屋城図屏風  豊臣秀吉によって起こされた文禄・慶長の役(1592~1598)において、その出発拠点となった東松浦半島一帯の、当時の様子を描いた淡彩の図である。
 描かれている景観は、主に沖の加部島天童岳からみた構図で、名護屋城を中心として、周辺に所在する多くの大名の陣屋、商人などの町家、湾に浮かぶ安宅船、明の使節の行列、それに遊行する南蛮人などの様子を繊細に写し出している。
 本図の裏面の一隅に「肥前名護屋○図板倉」とあることから、亀山城主(三重県)の板倉重常が、元禄元年(1688)に徳川綱吉に献上した屏風(狩野光信筆、金碧極彩色図)の下絵と考えられている。

 

特別史跡「名護屋城跡並陣跡」へリンク

 

 

佐賀県重要文化財 鹿島鍋島家史料(かしまなべしまけしりょう)

昭和56年3月16日指定
鹿島市古枝乙 祐徳博物館
歴史資料


鹿島鍋島家史料  鹿島鍋島家史料は、788冊の簿冊、19枚の絵図類を中心とする資料である。
 貞享3年(1686)から明治維新に至る497冊と、明治31年(1898)に至る83冊に、その他残簡の5袋を加えたもので、鹿島における藩政の府としての請役所の日記と、藩主の側近者によって藩主側近の諸事を書きしるした日記とに大別される。

 

 

 

佐賀県重要文化財 染付有田職人尽し絵図大皿(そめつけありたしょくにんづくしえずおおざら)

昭和57年3月19日指定
西松浦郡有田町大樽1-4-2 有田陶磁美術館
歴史資料


染付有田職人尽し絵図大皿  有田皿山で働く職人の姿を製作工程ごとに活写した大皿。口径59.4cm、高さ10cm、高台径30.2cm。
 形の異なる窓枠を9個設けて、そのなかに、泉山採石場、唐臼による陶石粉砕、水簸(すいひ)による陶土作り、細工場(さいくば)における成形、素焼釜、施釉、燃料にする薪の準備、本焼、検品などの陶器製作工程が緻密に描かれている。
 製作年代は江戸後期とみられる。

 

 

 

佐賀県重要文化財 染付鍋島藩窯絵図大皿(そめつけなべしまはんようえずおおざら) 

昭和61年3月19日指定
佐賀市城内一丁目15-23 県立博物館
歴史資料


染付鍋島藩窯絵図大皿  鍋島藩窯は陶業を隆盛に導くことによって、新たな殖産業を興すことをねらい、江戸時代初期に築かれ、明治4年(1872)の廃藩とともに姿を消した。
 本器は口径50.5cm、高さ10.9cm、高台径25.5cmの円形大皿で、伊万里市大川内山に築かれた鍋島藩窯の全景を染付の藍で描いたものである。左下の関所、見込み中心部の役宅や倉・細工場などの主要建物、欅や大公孫樹、左端の登り窯など明らかに実際の藩窯を写生したものと思われる。

国史跡「大川内鍋島窯跡」へリンク

 

 

 

佐賀県重要文化財 肥前国産物図考(ひぜんこくさんぶつずこう)

平成7年5月26日指定
佐賀市城内一丁目15-23 県立博物館
歴史資料


肥前国産物図考  肥前国の中でも唐津領内の主要生業を描写し解説した折り本形式の図録で、全8帖からなっている。
 佐賀県立博物館が所有するこの絵図は『富士本』と称され、富山県新湊の近岡七四郎氏旧蔵のもので、別に『内閣文庫本』と称する同形式の絵図が、現在、国立公文書館に収蔵されている。原本は現在散逸しており、一部しか知られていない。
 原本の著作者は木崎攸軒盛標で、宝暦12年(1762)に三河国岡崎城より唐津藩の大名として迎えられた水野忠任の家臣として随伴し、以後軍師として仕えた人物である。
 描かれている23件の生業は、18世紀後半の情景であり、四帖目の捕鯨の場面をはじめとして、今では見ることのできないものや、七帖目の焼物大概に描かれた叩き成形の技法や登り窯による焼成、あるいは八帖目の紙漉大概に描かれた和紙の製法など、佐賀県内に現在でも受け継がれているが、ごく限られた地域でしか見ることのできないものも含まれている。

 

 

 

佐賀県重要文化財 蒸気車雛形(じょうきしゃひながた)

附 貨車(二台) レール付き台座(一台) 組立式板付きレール(八枚)

平成17年3月30日指定
佐賀市松原二丁目5-22 公益財団法人鍋島報效会
歴史資料


蒸気車雛形  嘉永5年(1852)に設置された佐賀藩精煉方では理化学を中心に科学技術の研究・開発にあたったが、蒸気機関の開発・試作にも尽力し、安政2年(1855)には蒸気車及び蒸気船の雛形に着手したとされる。
 同雛形は精煉方主任の佐野常民を中心に、中村奇輔、石黒寛次、福谷啓吉やからくり儀右衛門の名で知られる田中近江親子などによって作られたとされる蒸気機関車の縮小模型である。ボイラーなどの主要部分は銅で作り、シャーシ、車輪等は真鍮等で作られている。汽罐の内部構造は単純で蒸気圧が十分でなかったと思われるが、ギヤ等の機械技術の工夫によりそれを補い、アルコール燃料により可動するように製作され、高い技術水準を示している。

法量 : 長さ39.8cm、高さ31.5cm、幅14.0cm

 

 

佐賀県重要文化財 蒸気船雛形(外輪船)(じょうきせんひながた(がいりんせん))

平成17年3月30日指定
松原二丁目5-22 公益財団法人鍋島報效会
歴史資料


蒸気船雛形(外輪船)  佐賀藩精煉方の製作とされる蒸気船の雛形で、外輪・スクリュー2隻のうちの外輪船である。
 蒸気機関や動力伝達装置などは銅、真鍮などの金属で作られているが、船本体は木製である。汽罐内に煙管が施されており、蒸気車雛形と比べて熱効率が向上し、より大きい力が発揮できたと思われる。燃料はアルコールで、汽罐内で発生した蒸気はシリンダーに送られて動力機構に伝えられ外輪を回転させる。蒸気機関と推進駆動軸との接続はピストン・ロッドとコネクティング・ロッドによる簡便なものである。

 法量:長さ88.0cm、高さ52.5cm、幅18.6cm。

 

 

 

佐賀県重要文化財 蒸気船雛形(スクリュー船)(じょうきせんひながた(すくりゅーせん))

平成17年3月30日指定
松原二丁目5-22 公益財団法人鍋島報效会
歴史資料


蒸気船雛形(スクリュー船)  佐賀藩精煉方の製作とされる蒸気船の雛形で、外輪・スクリュー2隻のうちのスクリュー船である。
 蒸気機関や動力伝達装置などは銅、真鍮などの金属で作られているが、船本体は木製である。外輪船同様に汽罐内に煙管が施されているが、その構造はより複雑なものとなっており、高い熱効率が実現できたと思われる。蒸気機関と推進駆動軸との接続はピストン・ロッドとコネクティング・ロッドを一体化したオッシレイト・エンジン(首ふり機関、搖筒機関)となっており、この機関は当時日本に輸入された欧米の文献に表れた最新の技術である。


 法量 : 長さ99.0cm、高さ67.0cm、幅22.0cm。

 

 

 

佐賀県重要文化財 モルチール砲(もるちーるほう)

平成21年4月1日指定
所在地  佐賀市城内一丁目15番23号 佐賀県立博物館
所有者  佐賀市城内二丁目18番1号(佐賀城本丸歴史館)

歴史資料


 モルチール砲モルチール砲は、約45度の大射角で砲弾を打ち上げる砲身の短い大口径砲で、その形から「臼砲」(きゅうほう)ともよばれる。

 当該資料(2門)は、ともにオランダ式陸用29ドイム砲であり、佐賀藩が所持していたことが記録によって確かめられる。明治以降は、戦前まで伏見宮邸にあったことが知られ、その後個人の所有を経て、平成16年に佐賀城本丸歴史館の収蔵品となった。

 幕末の佐賀藩は、洋式砲術をいち早く取り入れ、反射炉を用いた鉄製大砲の鋳造に成功し、最新式の火器の輸入・装備を行うなど他藩に先駆けて軍事技術の近代化を行ったが、佐賀藩のものであることが確かな現存の大砲は極めて少なく、この2門は貴重な残存例といえる。

 

 (1) 「L.MARITZ.FEC」銘  青銅製、口径29cm、全長87cm、重量1200.5kg

 幕府が、高島流砲術の採用後はじめてオランダに正式発注し、天保14年に輸入した大型火器3門の内の1門である。

 加えて、佐賀藩が入手して長崎の砲台に備え付けたことも記録によって知られ、長崎警備に用いられた大砲の実物として、佐賀藩史における重要性が高い。

 

 (2) 「冠軍・蓮池」銘   青銅製、口径29cm、全長87cm、重量1134.5kg

佐賀藩の支藩蓮池藩が所持し、後に本藩がこれを借り入れた。(1)の砲を模して国内で鋳造された可能性がある。

 

 

 

佐賀県重要文化財 豊臣秀吉自筆書状(五月廿二日/おね宛)(とよとみひでよしじひつしょじょう(ごがつにじゅうにち/おねあて))

平成21年4月1日指定
唐津市鎮西町大字名護屋1931番地3 佐賀県立名護屋城博物館
歴史資料


 豊臣秀吉自筆書状(五月廿二日/おね宛)本書状は、豊臣秀吉が、名護屋在陣中の文禄2(1593)年5月22日に正室「おね」(北政所)に宛てて書いた消息(自筆の私信)で、元来紙2枚に書かれたものを継ぎ合わせて掛幅装されたものである。 寸法は28.0cm×90.5cm(本紙)。

 本書状が書かれた文禄2年5月22日は、7日前の5月15日に謝用梓・徐一貫ら明国講和団(小西行長・沈惟敬らの講和交渉の中で仕立てられた「偽りの明国勅使」)が名護屋に到着し、23日に秀吉に謁見する前日にあたる。

 秀吉が名護屋在陣中に発した自筆書状は、現在12通確認されているが、本書状は、この中の8通目にあたる。

 

 

 

佐賀県重要文化財 洪家伝来洪浩然関係資料(こうけでんらいこうこうぜんかんけいしりょう) 

平成22年3月12日指定
佐賀県立名護屋城博物館  唐津市鎮西町名護屋1931番地3
歴史資料


 洪家伝来洪浩然関係資料洪浩然は文禄・慶長の役(1592-1598)に際し、朝鮮国の晋州城(チンジュソン)付近で鍋島直茂の軍に捕らえられ、佐賀に連れてこられた。

 書に優れた才能を持つ彼は、京都五山で数年間学んだ後、初代藩主鍋島勝茂の側近くに仕え、明暦3(1657)年4月、主君勝茂の訃報に接しすると「忍」の書を遺し、阿弥陀寺(現佐賀市木原)で追い腹を切った。

 洪浩然の書は文字の書き出しと止めの部分が力強く大きくなる独特の筆致を持ち、その書風から彼は「こぶ浩然」とも呼ばれている。

 浩然の書は当館蔵の資料の他、佐賀県内及び近隣の県にもその所在が確認されているが、頂法寺本堂(京都市)の寺号木額や英彦山神宮(福岡県添田町)の銅造鳥居、さらには與止日女神社(よどひめじんじゃ)(佐賀市大和町)等の石造鳥居などにも刻まれている。これらのことから能書家として高く評価されている。

   洪家伝来洪浩然関係資料 24点

   (附)その他洪家伝来資料  68点

 

 

 

 

佐賀県重要文化財(歴史資料) 追加指定
七言絶句二首屏風(しちごんぜっくにしゅびょうぶ)  1点 

   平成28年4月28日告示
   所在地 唐津市鎮西町名護屋 名護屋城博物館
   所有者 佐賀県


 洪浩然は、文禄2年(1593)、文禄の役に際し、鍋島直茂の軍に捕らえられ、鍋島直茂・勝茂に仕え、書家あるいは側近として活躍した。

洪浩然の作品や記録、そしてその後の洪家に関する資料は、戦場での捕縛から日本で死去するまでに至るまとまった被擄人の資料として全国的にも貴重であり、また優れた技能をもって生きた被擄人の実像を具体的に物語っている。洪浩然の子孫は「追腹之義士」の後継として藩から待遇されており、洪家に関する記録は被擄人の家系が歩んだ歴史や佐賀藩政を知る上でも重要である。

 「七言絶句二首屏風」は、平成22年の指定時には所蔵者の自宅内で所在が不明になっていたもので、その後改めて所在が確認された。本資料も高い評価を受けたその技量を直接的に示す資料であり、前回の指定資料と同様、被擄人・洪浩然に関する資料、文禄・慶長の役や佐賀藩

政に関係する資料として極めて貴重である。

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