佐賀県総合トップへ

新しく指定された文化財の紹介

最終更新日:
        このコーナーでは、新しく指定された文化財を紹介します。(国指定、国登録、国選定、国選択、県指定)

 

令和 3年 2月26日告示 登録有形文化財(建造物)       6件

  • 令和 3年 2月  4日告示 登録有形文化財(建造物)   1件
  • 令和 2年 10月  6日告示 国史跡 追加指定       1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(歴史資料)   1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(絵画)     1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(彫刻)     1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(考古資料)   1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要無形文化財(工芸技術) 1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県天然記念物(植物)     1件
  •  

    登録有形文化財(建造物)
    光栄菊酒造通り蔵及び本蔵(こうえいぎくしゅぞうとおりぐらおよびほんぐら) ほか5件                                                                                                     

       令和3年2月26日告示
       所在地 小城市三日月町織島字下七本六割2602-3
       所有者 個人

     

    koueigiku

    小城市は、祇園(ぎおん)(かわ)や川上川の豊かな清流によって収穫される良質の酒米を用いて醸造される清酒が有名で、千代(ちよ)(すずめ)菊坏(きくのはい)神集(かしわ)(ぬし)義宗(よしむね)光栄(こうえい)(ぎく)等の銘酒が生産されるなど、古くから酒造業が主要な産業である。

    光栄菊酒造は、小城市三日月(みかづき)町に位置し、表側は旧街道に面し、背景には田園を(よう)しており、高くそびえる煉瓦造(れんがぞう)の煙突は地域のシンボルとして親しまれている。製酒業は平成15年に幕を閉じたが、令和元年に外部からの有志によって製酒業が再開され、平成30年8月の豪雨災害も乗り越えて約20年ぶりに銘酒 光栄菊の復興がなされた。

    今回、登録となる建造物6件(光栄菊酒造通り蔵及び本蔵、洗い場及び釜場、モトクラ、ムロマエ、旧麹室、煙突)は、通り蔵及び本蔵を中心とする製酒に係る諸施設である。大正9年(1920)建設の通り蔵と昭和2年(1934)建設の本蔵は、元々南北方向に並行して建つ木造2階建、半切妻(はんきりづま)屋根(やね)の大型土蔵であるが、昭和11年(1936)にその南側5間分を繋いでコの字型状の平面を形成したもので、内部小屋組の豪壮な架構(かこう)は見応えがある。外部からの有志によって伝統産業が復活した光栄菊酒造は、地域創生のモデルとなるものであり、田園風景の中に佇む酒蔵や煉瓦造の煙突は、地域のランドマークとして当地の歴史的景観に大きく寄与している。

     

     

    登録有形文化財(建造物)
    永井家住宅店舗兼主屋(ながいけじゅうたくてんぽけんしゅおく) 1件          

       令和3年2月4日告示
       所在地 唐津市呼子町呼子字坊山3085
       所有者 個人

     

    nagaike

    永井家住宅は、唐津市東松浦半島北端部の呼子町に位置する。呼子は古来大陸渡航の船泊りとして知られ、江戸中期以降は鯨漁が盛んであり、永井家も江戸期に廻船問屋を営む傍ら捕鯨に携わっていた。屋号は対馬屋と称し、対馬藩主が参勤交代の際に宿泊したと伝わる。

    店舗兼主屋は、県重要文化財の旧中尾家住宅と同じく旧道に面して建ち、昭和40年代まで呼子湾に面していた敷地の奥には離れが接続する。建物は、木造2階建、切妻造平入、桟瓦葺で、間口6間半の規模をもつ。建物は、江戸後期の建設と考えられ、外観正面は大振りな(もち)(おく)りで下屋(げや)(びさし)を支える。以前、大壁(おおかべ)漆喰(しっくい)(ぬり)の2階外壁には、旧中尾家住宅と同様に柱や貫型(ぬきがた)を現す特有の形状が施されていた。また、1階正面の柱間には(すり)上戸(あげど)等の建具の痕跡が残る。

    永井家住宅店舗兼主屋は、江戸後期に遡る貴重な町家で、呼子の伝統的町並みの中では旧中尾家住宅に次いで大きな規模を有している。正面庇の持送りや摺上戸、内部吹き抜け、座敷は港町呼子の繁栄を物語っており、国土の歴史的景観に寄与している。

     

     

    国史跡 追加指定
    田代太田古墳(たしろおおたこふん)  1件

       令和2年10月6日告示
       所在地 既指定  鳥栖市田代本町1370    
           追加指定 鳥栖市田代本町1372番地1、1372番地3、鳥栖市神辺町字庚申堂257番9 
       所有者 既指定  個人
           追加指定 個人
               

     

     

    tasiro

    大木川と山下川によってはさまれた河岸段丘上、標高51mに立地する。周辺には複数の前方後円墳が存在し、早くから装飾古墳として知られていた。

    墳丘は一部削平を受けているものの、2段築成の円墳と考えられ、現在直径約40m、高さ約6mである。内部主体は後室・中室・前室の3室からなる横穴式石室で石室全長約9m、後室天井部はドーム状のもち送りで、高さ約3.1mである。

    装飾壁画は後室奥壁と中室に赤・黒・緑の3色を用い、岩肌の黄色を利用して効果的に描かれている。図形は連続三角文・同心円文・蕨手文・花文の他、挙手人物像・騎馬人物像、船、楯、高坏などである。

    出土遺物や石室構造により6世紀中~後半の築造と考えられる。

     

    佐賀県重要文化財(歴史資料)
    鍋島直正肖像写真(なべしまなおまさしょうぞうしゃしん) 6枚  

       令和2年4月30日告示
       所在地  佐賀県佐賀市松原2丁目5-22  公益財団法人鍋島報效会
       所有者 公益財団法人鍋島報效会

     

    直正

     

    本資料は、10代佐賀藩主(なべ)(しま)(なお)(まさ)を写した6枚の湿(しっ)(ぱん)ガラス写真である。それぞれ個別の木製ケースに納入されており、1点は左閉じのアメリカ製とみられ、その他5点は金属製の(ちょう)(つがい)の付く右閉じである。6点とも揃って「御写真」と墨書された木箱に保管され、鍋島家春日(かすが)()()(しょ)(佐賀市大和町)の(ばん)(たく)座敷床の間に安置され伝来した。

    6枚の写真は、()(しゃ)(たい)の活きた迫真性を帯びており、肖像画とは異なる写真の記録上の特性を窺わせるものである。

    6点ともケースの蓋表に「御年四十六 安政六年己未年十一月於江戸溜池邸 藩醫川崎道民拝寫」と墨書された貼紙があり、撮影の年月と場所、撮影者を窺う手掛かりとなる。撮影者の(かわ)(さき)(どう)(みん)は佐賀藩士の医者で、貼紙に記される年月と同じ安政6年(1859)11月、鍋島直正は川崎を(けん)(べい)使()(せつ)の随行医師に加えるよう幕府に上申している。翌年、川崎は使節団に随行して渡米し、写真術を吸収して帰国したことが知られている。

     佐賀藩では、嘉永5年(1852)に西洋の理科学分野の研究や製作を行う(せい)(れん)(かた)が鍋島直正の意思によって創設され、写真術の研究も行われたことが知られている。本資料の撮影者である川崎道民について、精煉方での写真術研究と積極的に結びつける研究はなく、撮影時期について貼紙の記述を裏付ける傍証資料は見出されていないが、撮影時期が川崎渡米前の安政6年(1859)、帰国後の文久元年(1861)頃のいずれにしても、本資料は我が国における写真術の実用化の様相や佐賀藩での受容などを知る上で数少ない(れい)(めい)()の作例と位置づけられ、今後、歴史学や写真学をはじめ、服飾史など様々な分野で知見が得られることが期待されるもので価値が高い。

     

     

    佐賀県重要文化財(絵画)
    絹本著色豊臣秀吉像(けんぽんちゃくしょくとよとみひでよしぞう) 1幅  

       令和2年4月30日告示
       所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3 佐賀県立名護屋城博物館
       所有者 佐賀県

     

    秀吉

    本作は、「豊国(とよくに)大明神(だいみょうじん)」として神格化された豊臣秀吉を像主として描いた作品である。慶長3(1598)年の秀吉の死後、翌慶長4(1599)年に()(よう)(ぜい)天皇は秀吉に「豊国大明神」の神号を贈り、豊国神社が建立されて秀吉は神として祀られるようになった。以降、主に慶長15(1615)年の豊臣家滅亡までの間に秀吉画像は礼拝用等として制作され、大名や寺社等により所持されるようになった。

    桃山時代から江戸時代初期に制作された秀吉画像としては、約40例が知られ、その内、重要文化財として5件が国指定を受け、重要美術品として2件が認定されている。本作も同時期に制作されたもので、構図は逸翁美術館本や蓮華定院本を原本とするものと推定される宇和島伊達文化保存会本や新日吉神宮本に類似する。

    明治期において本作を所蔵していた福井(さだ)(のり)(恒斎)の箱書には、()薬院(やくいん)全宗(ぜんそう)(秀吉の侍医)の旧蔵で、制作者は()野山(のうさん)(らく)と記されているが、その詳細については不明であるものの、本作は極めて緻密に描写され、小さい手足の描写や掘り抜き技法等の狩野派絵師の特徴的技法も認められることから、狩野派や長谷川派等の当時一流の絵師によって制作されたものと考えられる。本作の寸法は、縦36.3cm、横24.0cmで現存する同時期の秀吉画像の約1月3日~1月2日と小型で画賛も無く、本作は、小規模な持仏堂における礼拝用等として制作されたものと推定され、類例の無い希少な作品である。

    本作は、日本史上の著名な人物で、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際の国内拠点である肥前名護屋に築かれた名護屋城主豊臣秀吉を描いたもので、制作年代(桃山時代~江戸時代初期)も古く、狩野派等の当時一流の絵師によって描かれた秀作で美術的価値が高く、本県とも所縁が深い作品であり価値が高い。

     

     

     

     

    佐賀県重要文化財(彫刻)
    木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう) 1躯  附 像内納入品 1包 浄土三部経の題記をもつ包紙に「承久二二年壬午正月九日/大檀那金剛念盛/佛師琳賢」の墨書あり

       令和2年4月30日告示
       所在地  木造阿弥陀如来立像(1躯) 佐賀県杵島郡白石町大字戸ケ里2216 弥福寺

            像内納入品(1包) (寄託先)佐賀県佐賀市城内一丁目 15-23 佐賀県立博物館

       所有者  宗教法人弥福寺


     

    阿弥陀如来付けたり

     

    佐賀県杵島郡白石町の祥雲山()福寺(ふくじ)(曹洞宗)に安置される木造阿弥陀如来立像は、来迎印(らいごういん)を結ぶやや小ぶりの三尺(さんじゃく)阿弥陀像(あみだぞう)(像高77.7cm)である。低い(にっ)(けい)をもつ頭部に()(ほつ)を彫出し、丸みを帯びた顔は半眼の穏やかな表情をあらわし、袈裟(けさ)()肩衣(けんえ)内衣(ないえ)(くん)をまとい、正面の腹から下の袈裟(けさ)にはU字状の衣文(えもん)を刻む。保存状態は良好で、黒ずんだ肉親部には金泥(きんでい)、着衣部には卍繋文や亀甲(きっこう)繋文などの精緻な(きり)(かね)が認められ、当初は(かい)金色(こんじき)の仕上げであったことが窺える。

    調査に際し、像内には体部背面に打ち付けられた紙製筒状の納入品(縦34.5cm、幅4.6cm、厚3.0cm)が確認されており、その包紙には「浄土三部経」の題記とともに「承久二二年壬午正月九日/大檀那金剛念盛/佛師琳賢」の墨書が認められ、さらにX線CTスキャンによる分析では、内部に三ないし四巻の経典とともに、仏舎利らしき粒状の物体が確認されている。納入品は、過去に取り出された形跡がないことから制作時に納入されたとみられ、その年紀から、本像は承久4年(1222)に琳賢によって制作されたものと考えられる。

    本像は、快慶が創始した安阿弥様との接点を持ちつつも先進的な衣文表現を採用したもので、鎌倉時代における三尺阿弥陀像の展開を知る上で重要な位置を占めるものと考えられる。また、その納入品である「浄土三部経」は、法然没後から間もない時期の写経として、現存する最初期の遺品となり、法然教団関係者の関与が想定される重要な資料と考えられる。

    本像の伝来は不明であるが、仏像の様式やその納入品から、制作の背景や作者、造像年紀が窺える作例として貴重であり、今後、適切な方法で納入品を調査することで、経典を書写した人物や関係者の所属等、新知見が得られることが期待され、佐賀県における彫刻史や信仰の歴史を知るうえで重要なものと考えられ価値が高い。

     

     

    佐賀県重要文化財(考古資料)
    旭ヶ岡遺跡出土の鉄戈(あさひがおかいせきしゅつどのてっか) 1点  附 甕棺 1点

       令和2年4月30日告示
             所在地 佐賀県鹿島市大字納富分2643番地1  鹿島市教育委員会
       所有者 鹿島市

     

    鉄か2

     

    旭ヶ岡遺跡は、鹿島市大字高津原(たかつはら)(かしわ)に所在し、多良(たら)(だけ)から伸びる舌状(ぜつじょう)台地の末端部、標高26m付近に立地する。弥生時代中期後半の(かめ)(かん)()倒置(とうち)(かん))の棺内から出土した鉄戈1点、(つけたり)(かめ)(かん)1点が指定される。

    鉄戈は、北部九州で20数例しか出土例がなく、佐賀県内では(なか)(ばる)遺跡(唐津市)、二子(ふたご)山崎(やまさき)遺跡(神埼市)、久保田(くぼた)遺跡(基山町)に続いて4例目となる。

     遺存状態は良好で、木質などの有機質の痕跡は確認できない。(けい)部付近は(まち)部で折れており、装着時の折損の可能性が考えられる。鉄戈が副葬された甕棺は、弥生時代中期後半と考えられ、鹿島市内から出土する甕棺より一回り大きく、胎土も在地のものと異なるため、他地域から搬入された可能性がある。

    鉄戈は、当時の最先端技術で製作された鉄器で、被葬者の社会的地位を象徴するものと考えられており、当遺跡から鉄戈が出土したことは、鉄戈を入手し得た有力者が鹿島地域に存在していた証左となる。これまで鹿島地域を含む有明海西岸地域では、弥生時代中期後半の有力者層が埋葬された墓が発見されていなかったことから、鉄戈と鉄戈を副葬した甕棺は、当地域における当該期の社会構造を知るうえで重要である。

     

    佐賀県重要無形文化財(工芸技術)
    名尾紙(なおがみ)                                     

       令和2年4月30日告示
       所在地  佐賀県佐賀市大和町大字名尾4756番地  名尾紙保存会

       保持団体  名尾紙保存会  会長 谷口祐次郎  


     

    名尾紙2

     

    名尾紙の生産は元禄(げんろく)年間(ねんかん)(1688~1704)まで遡る。耕地が少なく農家の生活が困難であるのを憂いた納富(のうどみ)(よし)(すけ)が、筑後溝口村で(そう)日源(にちげん)の教えを受け、農家の副業として村民に伝えたのが名尾紙の始まりである。

    名尾地区は脊振山(せふりやま)に源を発する田中川や名尾川沿いに位置し、手漉き和紙生産に欠かせない良質の水を確保することができる。また、繊維が太く長い梶を原料とした紙は、地合がよくしまり、紙面に毛羽立ちが生じにくく、極めて強靭であり、紙色や紙肌にもその特色がよく発揮され、強靭性が特に求められる障子紙・提灯紙・傘紙などが生産された。こうした名尾紙の特色は、吟味精選された原材料の製造をはじめ、入念な伝統技術を駆使したものである。純生漉きの和紙としてその価値は高い。

     

       

    県天然記念物(植物)
    新北神社のビャクシン(にきたじんじゃのびゃくしん)  1株  

       令和2年4月30日告示
       所在地 佐賀県佐賀市諸富町大字為重1080番地 新北神社
       所有者 新北神社

     

     

    ビャクシン

     

    新北神社は、6世紀末の(よう)(めい)天皇の時代に創建され、9世紀初めの嵯峨(さが)天皇の時代に再建されたといわれる、素盞鳴(すさのお)(みこと)(しゅ)(しん)として(まつ)るこの地方を代表する古社(ふるやしろ)である。 

    神社拝殿の右横にあるビャクシンは(みき)(しゅう)4.1m、枝張り6.0m、(じゅ)(こう)20.0mで、ビャクシンとしては県内最大の巨木であり、県の「名木100選」にも選定されている。また、全国の主なビャクシンの巨木(幹周及び樹高の平均値がそれぞれ4.9m、13.3m)と比較しても遜色がない。樹齢は明らかでないものの1600年とも2200年ともいわれている。幹は斜上(しゃじょう)しており、倒伏(とうふく)しないように支柱がそえられている。その様子から地元では「()(りゅう)(ぼく)(りゅう)神木(しんぼく))」とも呼ばれ、これまで御神木(ごしんぼく)として大切に育てられてきた。主幹部はビャクシン特有である樹皮(じゅひ)()げ、材がむき出しになっている部分があり、ねじれや瘤状(こぶじょう)隆起(りゅうき)もみられ、古木特有の風格がある。

    当該文化財は当県の自然を記念する代表的な巨木、古木であり、学術上価値が高い。

     

     

     

    このページに関する
    お問い合わせは
    (ID:1346)
    佐賀県庁(法人番号 1000020410004) 〒840-8570  佐賀市城内1丁目1-59   Tel:0952-24-2111(代表)     
    Copyright© 2016 Saga Prefecture.All Rights Reserved.

    佐賀県庁(法人番号 1000020410004)

    〒840-8570
    佐賀市城内1丁目1-59
    Tel:0952-24-2111(代表)
    Copyright© 2016 Saga Prefecture.All Rights Reserved.