令和2年4月30日告示
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3 佐賀県立名護屋城博物館
所有者 佐賀県
令和2年4月30日告示
所在地
木造阿弥陀如来立像(1躯)
佐賀県杵島郡白石町大字戸ケ里2216 弥福寺
像内納入品(1包)
(寄託先)佐賀県佐賀市城内一丁目 15-23 佐賀県立博物館
所有者 宗教法人弥福寺
佐賀県杵島郡白石町の祥雲山弥福寺(曹洞宗)に安置される木造阿弥陀如来立像は、来迎印を結ぶやや小ぶりの三尺阿弥陀像(像高77.7cm)である。低い肉髻をもつ頭部に螺髪を彫出し、丸みを帯びた顔は半眼の穏やかな表情をあらわし、袈裟と覆肩衣、内衣、裙をまとい、正面の腹から下の袈裟にはU字状の衣文を刻む。保存状態は良好で、黒ずんだ肉親部には金泥、着衣部には卍繋文や亀甲繋文などの精緻な切金が認められ、当初は皆金色の仕上げであったことが窺える。
調査に際し、像内には体部背面に打ち付けられた紙製筒状の納入品(縦34.5cm、幅4.6cm、厚3.0cm)が確認されており、その包紙には「浄土三部経」の題記とともに「承久二二年壬午正月九日/大檀那金剛念盛/佛師琳賢」の墨書が認められ、さらにX線CTスキャンによる分析では、内部に三ないし四巻の経典とともに、仏舎利らしき粒状の物体が確認されている。納入品は、過去に取り出された形跡がないことから制作時に納入されたとみられ、その年紀から、本像は承久4年(1222)に琳賢によって制作されたものと考えられる。
本像は、快慶が創始した安阿弥様との接点を持ちつつも先進的な衣文表現を採用したもので、鎌倉時代における三尺阿弥陀像の展開を知る上で重要な位置を占めるものと考えられる。また、その納入品である「浄土三部経」は、法然没後から間もない時期の写経として、現存する最初期の遺品となり、法然教団関係者の関与が想定される重要な資料と考えられる。
本像の伝来は不明であるが、仏像の様式やその納入品から、制作の背景や作者、造像年紀が窺える作例として貴重であり、今後、適切な方法で納入品を調査することで、経典を書写した人物や関係者の所属等、新知見が得られることが期待され、佐賀県における彫刻史や信仰の歴史を知るうえで重要なものと考えられ価値が高い。
旭ヶ岡遺跡は、鹿島市大字高津原字柏に所在し、多良岳から伸びる舌状台地の末端部、標高26m付近に立地する。弥生時代中期後半の甕棺墓(倒置棺)の棺内から出土した鉄戈1点、附甕棺1点が指定される。
鉄戈は、北部九州で20数例しか出土例がなく、佐賀県内では中原遺跡(唐津市)、二子・山崎遺跡(神埼市)、久保田遺跡(基山町)に続いて4例目となる。
遺存状態は良好で、木質などの有機質の痕跡は確認できない。茎部付近は関部で折れており、装着時の折損の可能性が考えられる。鉄戈が副葬された甕棺は、弥生時代中期後半と考えられ、鹿島市内から出土する甕棺より一回り大きく、胎土も在地のものと異なるため、他地域から搬入された可能性がある。
鉄戈は、当時の最先端技術で製作された鉄器で、被葬者の社会的地位を象徴するものと考えられており、当遺跡から鉄戈が出土したことは、鉄戈を入手し得た有力者が鹿島地域に存在していた証左となる。これまで鹿島地域を含む有明海西岸地域では、弥生時代中期後半の有力者層が埋葬された墓が発見されていなかったことから、鉄戈と鉄戈を副葬した甕棺は、当地域における当該期の社会構造を知るうえで重要である。
令和2年4月30日告示
所在地 佐賀県佐賀市大和町大字名尾4756番地
名尾紙保存会
保持団体 名尾紙保存会 会長 谷口祐次郎
名尾紙の生産は元禄年間(1688~1704)まで遡る。耕地が少なく農家の生活が困難であるのを憂いた納富由助が、筑後溝口村で僧日源の教えを受け、農家の副業として村民に伝えたのが名尾紙の始まりである。
名尾地区は脊振山に源を発する田中川や名尾川沿いに位置し、手漉き和紙生産に欠かせない良質の水を確保することができる。また、繊維が太く長い梶を原料とした紙は、地合がよくしまり、紙面に毛羽立ちが生じにくく、極めて強靭であり、紙色や紙肌にもその特色がよく発揮され、強靭性が特に求められる障子紙・提灯紙・傘紙などが生産された。こうした名尾紙の特色は、吟味精選された原材料の製造をはじめ、入念な伝統技術を駆使したものである。純生漉きの和紙としてその価値は高い。
県天然記念物(植物)
新北神社のビャクシン(にきたじんじゃのびゃくしん) 1株
令和2年4月30日告示
所在地 佐賀県佐賀市諸富町大字為重1080番地 新北神社
所有者 新北神社
新北神社は、6世紀末の用明天皇の時代に創建され、9世紀初めの嵯峨天皇の時代に再建されたといわれる、素盞鳴尊を主神として祀るこの地方を代表する古社である。
神社拝殿の右横にあるビャクシンは幹周4.1m、枝張り6.0m、樹高20.0mで、ビャクシンとしては県内最大の巨木であり、県の「名木100選」にも選定されている。また、全国の主なビャクシンの巨木(幹周及び樹高の平均値がそれぞれ4.9m、13.3m)と比較しても遜色がない。樹齢は明らかでないものの1600年とも2200年ともいわれている。幹は斜上しており、倒伏しないように支柱がそえられている。その様子から地元では「飛龍木(竜神木)」とも呼ばれ、これまで御神木として大切に育てられてきた。主幹部はビャクシン特有である樹皮が剥げ、材がむき出しになっている部分があり、ねじれや瘤状の隆起もみられ、古木特有の風格がある。
当該文化財は当県の自然を記念する代表的な巨木、古木であり、学術上価値が高い。