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新しく指定された文化財の紹介

最終更新日:
        このコーナーでは、新しく指定された文化財を紹介します。(国指定、国登録、国選定、国選択、県指定)

 

  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(歴史資料)   1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(絵画)     1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(彫刻)     1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要文化財(考古資料)   1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県重要無形文化財(工芸技術) 1件
  • 令和 2年   4月30日告示 県天然記念物(植物)     1件
  • 令和元年 10月16日告示 国天然記念物(植物)追加指定 1件
    • 令和元年 9月10日告示 登録有形文化財(建造物)   1件

     

    佐賀県重要文化財(歴史資料)
    鍋島直正肖像写真(なべしまなおまさしょうぞうしゃしん) 6枚  

       令和2年4月30日告示
       所在地  佐賀県佐賀市松原2丁目5-22  公益財団法人鍋島報效会
       所有者 公益財団法人鍋島報效会

     

    直正

     

    本資料は、10代佐賀藩主(なべ)(しま)(なお)(まさ)を写した6枚の湿(しっ)(ぱん)ガラス写真である。それぞれ個別の木製ケースに納入されており、1点は左閉じのアメリカ製とみられ、その他5点は金属製の(ちょう)(つがい)の付く右閉じである。6点とも揃って「御写真」と墨書された木箱に保管され、鍋島家春日(かすが)()()(しょ)(佐賀市大和町)の(ばん)(たく)座敷床の間に安置され伝来した。

    6枚の写真は、()(しゃ)(たい)の活きた迫真性を帯びており、肖像画とは異なる写真の記録上の特性を窺わせるものである。

    6点ともケースの蓋表に「御年四十六 安政六年己未年十一月於江戸溜池邸 藩醫川崎道民拝寫」と墨書された貼紙があり、撮影の年月と場所、撮影者を窺う手掛かりとなる。撮影者の(かわ)(さき)(どう)(みん)は佐賀藩士の医者で、貼紙に記される年月と同じ安政6年(1859)11月、鍋島直正は川崎を(けん)(べい)使()(せつ)の随行医師に加えるよう幕府に上申している。翌年、川崎は使節団に随行して渡米し、写真術を吸収して帰国したことが知られている。

     佐賀藩では、嘉永5年(1852)に西洋の理科学分野の研究や製作を行う(せい)(れん)(かた)が鍋島直正の意思によって創設され、写真術の研究も行われたことが知られている。本資料の撮影者である川崎道民について、精煉方での写真術研究と積極的に結びつける研究はなく、撮影時期について貼紙の記述を裏付ける傍証資料は見出されていないが、撮影時期が川崎渡米前の安政6年(1859)、帰国後の文久元年(1861)頃のいずれにしても、本資料は我が国における写真術の実用化の様相や佐賀藩での受容などを知る上で数少ない(れい)(めい)()の作例と位置づけられ、今後、歴史学や写真学をはじめ、服飾史など様々な分野で知見が得られることが期待されるもので価値が高い。

     

     

    佐賀県重要文化財(絵画)
    絹本著色豊臣秀吉像(けんぽんちゃくしょくとよとみひでよしぞう) 1幅  

       令和2年4月30日告示
       所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3 佐賀県立名護屋城博物館
       所有者 佐賀県

     

    秀吉

    本作は、「豊国(とよくに)大明神(だいみょうじん)」として神格化された豊臣秀吉を像主として描いた作品である。慶長3(1598)年の秀吉の死後、翌慶長4(1599)年に()(よう)(ぜい)天皇は秀吉に「豊国大明神」の神号を贈り、豊国神社が建立されて秀吉は神として祀られるようになった。以降、主に慶長15(1615)年の豊臣家滅亡までの間に秀吉画像は礼拝用等として制作され、大名や寺社等により所持されるようになった。

    桃山時代から江戸時代初期に制作された秀吉画像としては、約40例が知られ、その内、重要文化財として5件が国指定を受け、重要美術品として2件が認定されている。本作も同時期に制作されたもので、構図は逸翁美術館本や蓮華定院本を原本とするものと推定される宇和島伊達文化保存会本や新日吉神宮本に類似する。

    明治期において本作を所蔵していた福井(さだ)(のり)(恒斎)の箱書には、()薬院(やくいん)全宗(ぜんそう)(秀吉の侍医)の旧蔵で、制作者は()野山(のうさん)(らく)と記されているが、その詳細については不明であるものの、本作は極めて緻密に描写され、小さい手足の描写や掘り抜き技法等の狩野派絵師の特徴的技法も認められることから、狩野派や長谷川派等の当時一流の絵師によって制作されたものと考えられる。本作の寸法は、縦36.3cm、横24.0cmで現存する同時期の秀吉画像の約1/3~1/2と小型で画賛も無く、本作は、小規模な持仏堂における礼拝用等として制作されたものと推定され、類例の無い希少な作品である。

    本作は、日本史上の著名な人物で、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際の国内拠点である肥前名護屋に築かれた名護屋城主豊臣秀吉を描いたもので、制作年代(桃山時代~江戸時代初期)も古く、狩野派等の当時一流の絵師によって描かれた秀作で美術的価値が高く、本県とも所縁が深い作品であり価値が高い。

     

     

     

     

    佐賀県重要文化財(彫刻)
    木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう) 1躯  附 像内納入品 1包 浄土三部経の題記をもつ包紙に「承久二二年壬午正月九日/大檀那金剛念盛/佛師琳賢」の墨書あり

       令和2年4月30日告示
       所在地  木造阿弥陀如来立像(1躯) 佐賀県杵島郡白石町大字戸ケ里2216 弥福寺

            像内納入品(1包) (寄託先)佐賀県佐賀市城内一丁目 15-23 佐賀県立博物館

       所有者  宗教法人弥福寺


     

    阿弥陀如来付けたり

     

    佐賀県杵島郡白石町の祥雲山()福寺(ふくじ)(曹洞宗)に安置される木造阿弥陀如来立像は、来迎印(らいごういん)を結ぶやや小ぶりの三尺(さんじゃく)阿弥陀像(あみだぞう)(像高77.7cm)である。低い(にっ)(けい)をもつ頭部に()(ほつ)を彫出し、丸みを帯びた顔は半眼の穏やかな表情をあらわし、袈裟(けさ)()肩衣(けんえ)内衣(ないえ)(くん)をまとい、正面の腹から下の袈裟(けさ)にはU字状の衣文(えもん)を刻む。保存状態は良好で、黒ずんだ肉親部には金泥(きんでい)、着衣部には卍繋文や亀甲(きっこう)繋文などの精緻な(きり)(かね)が認められ、当初は(かい)金色(こんじき)の仕上げであったことが窺える。

    調査に際し、像内には体部背面に打ち付けられた紙製筒状の納入品(縦34.5cm、幅4.6cm、厚3.0cm)が確認されており、その包紙には「浄土三部経」の題記とともに「承久二二年壬午正月九日/大檀那金剛念盛/佛師琳賢」の墨書が認められ、さらにX線CTスキャンによる分析では、内部に三ないし四巻の経典とともに、仏舎利らしき粒状の物体が確認されている。納入品は、過去に取り出された形跡がないことから制作時に納入されたとみられ、その年紀から、本像は承久4年(1222)に琳賢によって制作されたものと考えられる。

    本像は、快慶が創始した安阿弥様との接点を持ちつつも先進的な衣文表現を採用したもので、鎌倉時代における三尺阿弥陀像の展開を知る上で重要な位置を占めるものと考えられる。また、その納入品である「浄土三部経」は、法然没後から間もない時期の写経として、現存する最初期の遺品となり、法然教団関係者の関与が想定される重要な資料と考えられる。

    本像の伝来は不明であるが、仏像の様式やその納入品から、制作の背景や作者、造像年紀が窺える作例として貴重であり、今後、適切な方法で納入品を調査することで、経典を書写した人物や関係者の所属等、新知見が得られることが期待され、佐賀県における彫刻史や信仰の歴史を知るうえで重要なものと考えられ価値が高い。

     

     

    佐賀県重要文化財(考古資料)
    旭ヶ岡遺跡出土の鉄戈(あさひがおかいせきしゅつどのてっか) 1点  附 甕棺 1点

       令和2年4月30日告示
             所在地 佐賀県鹿島市大字納富分2643番地1  鹿島市教育委員会
       所有者 鹿島市

     

    鉄か2

     

    旭ヶ岡遺跡は、鹿島市大字高津原(たかつはら)(かしわ)に所在し、多良(たら)(だけ)から伸びる舌状(ぜつじょう)台地の末端部、標高26m付近に立地する。弥生時代中期後半の(かめ)(かん)()倒置(とうち)(かん))の棺内から出土した鉄戈1点、(つけたり)(かめ)(かん)1点が指定される。

    鉄戈は、北部九州で20数例しか出土例がなく、佐賀県内では(なか)(ばる)遺跡(唐津市)、二子(ふたご)山崎(やまさき)遺跡(神埼市)、久保田(くぼた)遺跡(基山町)に続いて4例目となる。

     遺存状態は良好で、木質などの有機質の痕跡は確認できない。(けい)部付近は(まち)部で折れており、装着時の折損の可能性が考えられる。鉄戈が副葬された甕棺は、弥生時代中期後半と考えられ、鹿島市内から出土する甕棺より一回り大きく、胎土も在地のものと異なるため、他地域から搬入された可能性がある。

    鉄戈は、当時の最先端技術で製作された鉄器で、被葬者の社会的地位を象徴するものと考えられており、当遺跡から鉄戈が出土したことは、鉄戈を入手し得た有力者が鹿島地域に存在していた証左となる。これまで鹿島地域を含む有明海西岸地域では、弥生時代中期後半の有力者層が埋葬された墓が発見されていなかったことから、鉄戈と鉄戈を副葬した甕棺は、当地域における当該期の社会構造を知るうえで重要である。

     

    佐賀県重要無形文化財(工芸技術)
    名尾紙(なおがみ)                                     

       令和2年4月30日告示
       所在地  佐賀県佐賀市大和町大字名尾4756番地  名尾紙保存会

       保持団体  名尾紙保存会  会長 谷口祐次郎  


     

    名尾紙2

     

    名尾紙の生産は元禄(げんろく)年間(ねんかん)(1688~1704)まで遡る。耕地が少なく農家の生活が困難であるのを憂いた納富(のうどみ)(よし)(すけ)が、筑後溝口村で(そう)日源(にちげん)の教えを受け、農家の副業として村民に伝えたのが名尾紙の始まりである。

    名尾地区は脊振山(せふりやま)に源を発する田中川や名尾川沿いに位置し、手漉き和紙生産に欠かせない良質の水を確保することができる。また、繊維が太く長い梶を原料とした紙は、地合がよくしまり、紙面に毛羽立ちが生じにくく、極めて強靭であり、紙色や紙肌にもその特色がよく発揮され、強靭性が特に求められる障子紙・提灯紙・傘紙などが生産された。こうした名尾紙の特色は、吟味精選された原材料の製造をはじめ、入念な伝統技術を駆使したものである。純生漉きの和紙としてその価値は高い。

     

       

    県天然記念物(植物)
    新北神社のビャクシン(にきたじんじゃのびゃくしん)  1株  

       令和2年4月30日告示
       所在地 佐賀県佐賀市諸富町大字為重1080番地 新北神社
       所有者 新北神社

     

     

    ビャクシン

     

    新北神社は、6世紀末の(よう)(めい)天皇の時代に創建され、9世紀初めの嵯峨(さが)天皇の時代に再建されたといわれる、素盞鳴(すさのお)(みこと)(しゅ)(しん)として(まつ)るこの地方を代表する古社(ふるやしろ)である。 

    神社拝殿の右横にあるビャクシンは(みき)(しゅう)4.1m、枝張り6.0m、(じゅ)(こう)20.0mで、ビャクシンとしては県内最大の巨木であり、県の「名木100選」にも選定されている。また、全国の主なビャクシンの巨木(幹周及び樹高の平均値がそれぞれ4.9m、13.3m)と比較しても遜色がない。樹齢は明らかでないものの1600年とも2200年ともいわれている。幹は斜上(しゃじょう)しており、倒伏(とうふく)しないように支柱がそえられている。その様子から地元では「()(りゅう)(ぼく)(りゅう)神木(しんぼく))」とも呼ばれ、これまで御神木(ごしんぼく)として大切に育てられてきた。主幹部はビャクシン特有である樹皮(じゅひ)()げ、材がむき出しになっている部分があり、ねじれや瘤状(こぶじょう)隆起(りゅうき)もみられ、古木特有の風格がある。

    当該文化財は当県の自然を記念する代表的な巨木、古木であり、学術上価値が高い。

       

    国天然記念物(植物) 追加指定
    有田のイチョウ(ありたのいちょう)  1株

       令和元年10月16日告示
       所在地 既指定 西松浦郡有田町泉山一丁目524番地2(株単体のみ)
           追加指定(1)西松浦郡有田町泉山一丁目525番1の一部(土地)
               (2)西松浦郡有田町泉山一丁目524番2(土地)
       所有者 既指定 泉山区
           追加指定(1)個人
               (2)泉山区

     

     

    イチョウ2

    神社や寺院の境内地の他、最近は街路樹としても植えられるイチョウは、中国原産の落葉高木であり、生きる化石ともいわれている。

     有田のイチョウは、弁財天社の境内に所在し、雄木で、根回り11m、目通り幹回り9m、樹高38m、枝張りは31mに及ぶ県内随一のイチョウ巨木で、全国的にも貴重である。推定樹齢は、1000年以上であるが、樹勢は今も旺盛である。

     
     
     
     

    登録有形文化財(建造物)
    草伝社(旧井手家住宅)店舗兼主屋(そうでんしゃきゅういでけじゅうたくてんぽけんしゅおく) 1棟          草伝社(旧井手家住宅)倉庫(そうでんしゃきゅういでけじゅうたくそうこ) 1棟                

       令和元年9月10日告示
       所在地 唐津市北波多徳須恵字前田1030番3他
       所有者 個人

     

    草伝社

    草伝社(旧井手家住宅)は、佐賀県北部の唐津市北波多徳須恵に位置する。江戸時代には、唐津から長崎へ向かう塚崎往還と伊万里へ向かう伊万里往還の分岐点であり、宿駅が整備された。付近を流れる徳須恵川には船着き場が設けられ、河川舟運の要所でもあった。明治から昭和中期にかけ多くの炭鉱が開鉱し、北波多の中心地であった徳須恵には商店や劇場、旅館などが軒を連ねた。

    旧井手家住宅は、北波多村の初代村長や佐賀県会議員を務めた井出豊助が質屋兼住宅と倉庫を建造し居住したのが始まりと伝わる。その後、借家の期間を経て、子の金次郎が結婚後に移住。増築であるハナレでは、「青い山脈」の脚本執筆で知られる孫の俊郎が中学時代を過ごした。平成19年以降は原氏所有となり、草伝社という屋号で唐津焼の展示販売や茶道教室を開き活用している。

    店舗兼主屋は私道に西面して建ち、東側に庭を配置する。建物は木造2階建、桟瓦葺、平入の切妻造で、北部の台所周り、中央部の座敷・店舗、南部のハナレからなり、それぞれ梁行四間と桁行二間、梁行四間と桁行七間、梁行一間半と桁行五間の規模をもつ。このうち中央部1階は、私道に面するゲンカン・ワキザシキ・ミセと、庭側のホンザシキ・ブツマ・チャノマ等からなる二列型平面で構成される。ホンザシキは近代的な意匠的特徴を有し、タガヤサン等の良材を用いた床や付書院・床脇、繊細な筬欄等を設える。座敷部分西面に取り付くゲンカンを踏まえれば、接客に特化した空間といえる。質倉として利用された北・中央部の2階は板間で天井は無く、小屋は京呂組の二重梁で、妻壁には小屋梁上から棟上にかけて斜めの貫が入る。2階の外装は現状縦板張だが、建造当初の外観を示すと考えられる大正11年(1922)の古写真では北部が板張、中央部が白漆喰の大壁である。棟札等、建物の建設年代を示す資料は確認できないものの、井手家三代の来歴と井手家に伝聞される明治38年(1905)の建造年代から、北部・中央部は明治後期、大正11年の古写真にない南部は大正後期の建造と考えられる。

    倉庫は、主屋兼店舗北側に隣接して建つ。伝聞では同様の倉庫2棟がさらに北側に並び、倉庫3棟、店舗兼主屋、井手家本家が2階部の渡廊下で繋がっていたという。倉庫は、木造2階建、桟瓦葺、平入の切妻造で、梁行二間半、桁行五間の規模をもち、1階は土間の二間、2階は厚板張の一間で構成される。小屋は京呂組で、二重梁と登梁を用いる。店舗兼主屋と倉庫の2階壁面には伝聞の裏付けとなる渡廊下の痕跡を確認し、倉庫は店舗兼主屋と同じ明治後期の建造と考えられる。

    草伝社(旧井手家住宅)の店舗兼主屋と倉庫は、良材を用い意匠を凝らした座敷が、建物構成とともに良好に残る等、近代における北波多徳須恵の盛栄を示す重要な町家建築であり、国土の歴史的景観に寄与するものである。

     

     

     

     

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