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企画展示「公文書から読み解く明治維新と佐賀(1) ー佐賀県の成立ー」

最終更新日:
 

概要

 平成30年度の展示は、明治維新150年事業に合わせ、「明治維新と佐賀」をテーマとした全4回のシリーズ展示を行いました。シリーズ(1)では、江戸時代から明治時代へと変わり新政府による近代的な国づくりが進められる中、明治4年(1871年)の廃藩置県から三潴県(みづまけん)や長崎県への併合・分離を経て、現在の県域が確立する明治16年(1883年)までの佐賀県を紹介しました。

【会期:平成30年4月4日~7月1日】                                                      

  チラシ

 

 
 

主な展示資料紹介 

 慶応3年(1867年)10月、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、大政奉還を申し出、政権を朝廷に返還しました。

 明治2年(1869年)1月、薩摩・長州・土佐・肥前の各藩主は藩の土地(版)や人民(籍)を朝廷へ返還することを申し出ました。その後、全国の藩が版籍奉還を行い、旧藩主は知藩事(藩知事)となりました。

 明治4年(1871年)7月、廃藩置県の詔書が出され、全国で3府302県が誕生し、同年11月に3府72県へ統合が行われました。

 
梗概1 梗概2

明治7年役之梗概

(大正5年)

大正5年の陸軍特別大演習の天皇来県に合わせて作成されたものと思われ、

明治7年に起こった佐賀の乱(佐賀戦争)の概要がまとめられています。

右は官軍進撃略図。

 
 廃藩置県で藩から県となった厳原(いずはら)・佐賀・蓮池・小城・鹿島・唐津の6県は、明治4年11月までに統合し、伊万里県となります。伊万里に県庁が置かれますが、県の西端に位置していたことや役人の多くが現在の佐賀市周辺に居住していたことから不便であったため、明治5年5月に県庁を佐賀に移し、佐賀県と改称されました。
 旧佐賀藩出身者による統治が続いていましたが、明治6年7月、他県出身者の岩村通俊が権令(後の県知事)に任命され、中央集権的な改革を断行しました。これにより、県民の政府への反感が高まりました。
 
 明治6年12月、佐賀において征韓論に賛成する士族が征韓党を結成しました。一方で、旧藩時代の体制を支持する士族は、翌年1月、憂国党を結成します。政府は旧雄藩である佐賀の反政府的な動きを警戒していました。
 佐賀出身で、前参議の江藤新平、そして元秋田県権令の島義勇は、士族たちの暴発を抑えるため帰県します。しかし、政府は鎮圧軍を配備し武力で制圧しようとしたため、これに反発した江藤と島は、明治7年2月、征韓党と憂国党の士族たちを率いて戦いますが、敗れ去り、処刑されました。

 

 
県庁仮設の件藤津郡布告

県庁を松原町へ仮設の件

(明治16年7月1日)

佐賀県は、明治16年5月24日に長崎県から分離独立し、

佐賀郡松原町にあった佐賀中学校の校舎を仮県庁として

事務取扱を開始しました。

三潴県管下の藤津郡を長崎県へ移管する旨の布告

(明治9年6月21日)

 

 佐賀の乱(佐賀戦争)以後も佐賀県では士族に不穏な動きがあり、難治県の一つと考えられていました。政府は、難治県を近県に併合することで、旧藩士族と県庁の結びつきを遮断し、県に対する政府の統制力を強化しようとしました。

 佐賀県は、明治9年4月に三潴県(みづまけん)に併合されますが、順次長崎県へ移管され、同年8月には、三潴県が廃止となり、旧佐賀県域はすべて長崎県へ併合されました。明治15年、佐賀県を復活させようという運動がおこり、翌年5月に長崎県から分離独立し、現在の佐賀県域となりました。

 

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