当庭園は、御船山の断崖絶壁の南西麓において、弘化(こうか)2年(1845)に武雄邑主鍋島茂義(たけおゆうしゅなべしましげよし)(1800~1862)が京都から狩野派(かのうは)の絵師を招いて造った「萩の尾園(はぎのおえん)」という別邸の池泉庭園(ちせんていえん)を基礎とする。その後、明治後期~昭和初期にかけて規模拡張、追加植栽をした庭園である。
幕末の佐賀藩主鍋島直正(閑叟公(かんそうこう))(1815~1871)が武雄温泉に持病の治療に訪れた際に、萩の尾園にも訪れており、あまりにもすばらしい景観を見て、「渓山崖所(けいざんがいしょ)」の書を贈っていることから、池の周囲を散策するとともに、端岳の絶壁の眺望を楽しむ庭園であったことが推察される。
明治初期には一般に公開されていたが、明治末年には荒廃したため、鍋島家が庭師(にわし)巌谷喜平(いわやきへい)に管理を任せると、巌谷は庭園の区域を拡張しサクラや大量のツツジを植え、遊覧の名所としたという。大正13年(1924)に発行された『武雄案内』には、「萩の尾のお茶屋」として紹介されている。
昭和21年(1946)には所有者が鍋島氏から炭鉱主山口慶八(やまぐちけいや)氏に替わり、さらに昭和48年(1973)に現在の所有者となり、ホテル開業とともに一般公開を開始している。
旧高取家住宅庭園(きゅうたかとりけじゅうたくていえん)
令和5年4月25日指定
所在地 唐津市北城内5-40
名勝
旧高取家住宅庭園(奥庭) |
旧高取家住宅庭園は唐津城の本丸西南側の唐津湾に面する海岸沿い、約2,300坪の広大な敷地にある旧高取家住宅の庭園である。旧高取家住宅は、明治30年代より芳谷炭鉱(よしたにたんこう)、相知炭鉱(おうちたんこう)を経て杵島炭鉱(きしまたんこう)などを経営した炭鉱主として「肥前の炭鉱王」と呼ばれるまでの成功を収めた高取伊好(たかとりこれよし)(1850~1927)の邸宅である。石炭の積出港であった唐津に居を構えたことに始まるもので、伝統的な和風住宅の様式と西洋の様式が混在し、明治末から昭和初期にかけて、洋館や能舞台を組み込んだ日本の近代建築である炭鉱主の大邸宅として貴重なものである。各部の意匠等が高く評価され平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けている。
庭園は大きく4つの庭から構成されるもので、大広間棟と居住棟に囲まれた「中庭(茶庭)」大広間棟に面する「奥庭(池泉式庭園(ちせんしきていえん)」居住棟の仏間に面する「北側の庭」東側には、大正9年(1920)の朝香宮殿下御来臨(あさかのみやでんかごらいりん)の際につくられたとされる「朝香宮お手植えの松の庭」からなる。
庭園内には随所に唐津焼の作品が庭園の景物(けいぶつ)としてみられる。正確な作庭時期、作庭者については不明であるが、建築の増改築に伴い庭園も整えられていったものと考えられる。