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偉人モニュメントの紹介

最終更新日:
 

SPOT1 名君・鍋島直正と直正を支えた賢人たち

 

鍋島直正(なべしま なおまさ) 1814年~1871年

鍋島直正(公益財団法人鍋島報效会蔵)

公益財団法人鍋島報效会蔵 

佐賀藩10代藩主。1830(天保元)年、17歳(満15歳)の若さで家督を継ぎ、藩政改革を推進。古賀穀堂の意見を取り入れ、藩校「弘道館」で大胆な教育改革を推進。また重臣との協力体制の構築に力を注ぎ、鍋島茂義などを重用して西洋の科学技術を積極的に導入した。人材の育成と適材適所への配置により佐賀藩を雄藩へと躍進させた。
 


 

 

 

 

 

 

 
 

古賀穀堂(こが こくどう) 1777年~1836年

古賀穀堂(佐賀県立博物館蔵)

 佐賀県立博物館蔵

現在の佐賀市与賀町生まれ。〝寛政の三博士〟の一人として知られる幕府の儒官・古賀精里(せいり)の長男。1806(文化3)年、藩校「弘道館」の教授となり、蘭学の必要性を早くから唱えた。のちに藩主となる幼少の直正に教育係として指導に当たる。1831(天保2)年、藩主直正に意見書「済急封事(さいきゅうふうじ)」を提出。この意見書が佐賀藩の改革を方向付けた。
     
 
 
 

鍋島茂義(なべしま しげよし) 1800年~1862年

鍋島茂義(武雄市蔵)

 武雄市蔵
江戸時代後期の佐賀藩武雄領主。1822(文政5)年、若くして佐賀本藩の請役(筆頭家老)に抜擢され、鍋島直正の成長過程で多大な影響を与えた。1827(文政10)年には直正の姉寵姫(ちょうひめ)と結婚、義兄となった。1830年代の早期から、本藩に先駆け西洋式砲術や軍備をはじめとする蘭学を積極的に導入、明治維新を主導した佐賀藩の近代化の礎を築いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

SPOT2 弘道館で学んだ若き日の賢人たち

 

大隈重信(おおくま しげのぶ) 1838年~1922年

大隈重信(佐賀県立本丸歴史館蔵)

 佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

現在の佐賀市水ヶ江生まれ。1844(弘化元)年に藩校「弘道館」に入学。1867(慶応3)年、佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学(ばんがく)稽古所」(後に致遠館と改称)で副島種臣らとアメリカ人教師フルベッキに学ぶとともに、塾生の指導にも当たる。明治政府では、大蔵卿、外務大臣などを歴任、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、太陽暦(グレゴリオ暦)の採用を行い、東京専門学校(後の早稲田大学)を創立した。1898(明治31)年 と1914(大正3)年に総理大臣となり内閣を組織した。
 
 

副島種臣(そえじま たねおみ) 1828年~1905年

副島種臣(佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵)

 佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

現在の佐賀市鬼丸町生まれ。枝吉神陽の実弟。1834(天保5)年に藩校「弘道館」に入学し、1848(嘉永元)年に首班を務める。1867(慶応3)年に佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学(ばんがく)稽古所」(後に致遠館と改称)で大隈重信らと学び、また塾生の指導にも当たった。明治政府では、外務卿として日本初の国際裁判となった1872(明治5)年のマリア・ルス号事件で手腕を発揮し、「正義の人」として国際的な評価を得た。中林梧竹と並び明治期を代表する書家としても知られる。
 
 

SPOT3 弘道館で学んだ若き日の賢人たち

 

枝吉神陽(えだよし しんよう) 1822年~1862年

枝吉神陽(個人蔵/佐賀県立博物館寄託)

「神陽先生拝楠神図」

(個人蔵/佐賀県立博物館寄託)

現在の佐賀市鬼丸町生まれ。藩校「弘道館」で学び、才能が認められて、1844(弘化元)年に江戸の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」へ遊学。帰郷後は、弘道館で教鞭をとった。1850(嘉永3)年、弘道館の改革推進派を集めて「義祭同盟」を結成。尊王思想を説き、実弟の副島種臣をはじめ、大隈重信や江藤新平、島義勇(よしたけ)、大木喬任(たかとう)など、明治政府で活躍する佐賀出身の人材に影響を与えた。
 
 

島義勇(しま よしたけ)  1822年~1874年

島義勇(佐賀県立佐賀城本丸歴史館提供)

佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

現在の佐賀市西田代生まれ。1830(天保元)年から藩校「弘道館」で学び、その後、江戸へ遊学。1856(安政3)年、鍋島直正の命により蝦夷地(現在の北海道)、樺太を約2年にわたり探検調査した。1869(明治2)年、明治政府から開拓判官に命じられ、札幌に「五洲第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描く。今でも札幌では「北海道開拓の父」として人々から慕われている。
 
 

佐野常民(さの つねたみ) 1822年~1902年

佐野常民(日本赤十字社提供)

 日本赤十字社提供

現在の佐賀市川副町早津江生まれ。1834(天保5)年から藩校「弘道館」で学び、のち江戸、京都、大坂に遊学して幅広い学識を得た。1853(嘉永6)年に「佐賀藩精煉方(せいれんかた)」(理化学研究所)の主任となり、さらに日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造に関わった。1867(慶応3)年、佐賀藩が出展したパリ万国博覧会へ使節団代表として派遣される。西南戦争に際し、敵・味方を問わず救護する博愛社を創設し日本赤十字社の基礎を築いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

SPOT4 弘道館で学んだ若き日の賢人たち

 

江藤新平(えとう しんぺい) 1834年~1874年

江藤新平(佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵)

佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

現在の佐賀市鍋島町八戸生まれ。1845(弘化2)年に藩校「弘道館」に入学、大木喬任(たかとう)らと共に学ぶ。1850(嘉永3)年、枝吉神陽による「義祭同盟」に参加。1872(明治5)年、明治政府の初代司法卿に就任すると、四民平等、人民主義を唱え、司法権の独立に尽力、日本の司法制度の基礎を築く。「民権」という概念がなかった当時、誰でも公平な裁判を受けられるようにした。また、学制制度や警察制度の整備にも関わった。
 
 

大木喬任(おおき たかとう) 1832年~1899年

大木喬任(長崎大学付属図書館蔵)

長崎大学付属図書館蔵

現在の佐賀市水ヶ江生まれ。1846(弘化3)年、藩校「弘道館」に入学し、江藤新平らと共に学ぶ。1868(明治元)年、明治政府に出仕、江藤と連名で東京に都を定めることを岩倉具視(ともみ)に建白。東京府知事となる。1871(明治4)年、初代文部卿となり、学制を頒布し教育体制の整備に努める。全国に5万以上の小学校を設置し、身分の差別なく全ての子供が学校に通えるようにするなど、近代教育の礎を築いた。1881(明治14)年、司法卿に就任し、法典編纂の確立にも尽力した。
 
 
 
 
 
 

SPOT5 日本の近代建築の先駆者

 

辰野金吾(たつの きんご) 1854年~1919年

辰野金吾(©九州工業大学)

 (C)九州工業大学

建築家、教育者。唐津市出身。唐津藩の英学校「耐恒寮(たいこうりょう)」で高橋是清(これきよ)に学んだ後、1873(明治6)年、工部大学校(現 東京大学工学部)に入学、同期生の曾禰(そね)達蔵らとイギリス人建築家ジョサイア・コンドルのもとで西洋建築を学んだ、日本人初の建築家の一人。イギリス留学を経て、1884(明治17)年に工部大学校教授に就任し、多くの建築家を育てる。また、造家学会(現 日本建築学会)を創設するなど、建築界の発展に努力した。銀行やホテルなど200余りの建築設計に携わり、国の重要文化財である日本銀行本店、東京駅などの代表作を残している。

 

曾禰達蔵(そね たつぞう) 1852年~1937年

曾禰達蔵(日本建築学会図書館蔵)

日本建築学会図書館蔵

建築家。江戸唐津藩邸に生まれる。維新後に唐津藩の英学校「耐恒寮(たいこうりょう)」に入り、高橋是清(これきよ)に師事。その後、同郷の辰野金吾と共に工部大学校(現 東京大学工学部)に入学し、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルのもとで西洋建築を学んだ、日本人初の建築家の一人。卒業後、工部大学校助教授や海軍省を経て、1890(明治23)年、三菱社に入社。東京丸の内に「一丁ロンドン」と呼ばれた日本初のオフィスビル街の建築を手掛ける。1908(明治41)年「曾禰中條建築事務所」を開設。国の重要文化財である慶應義塾創立五十年記念図書館(現 慶應義塾図書館旧館)などの代表作を残している。
 
 
 
 

SPOT6 明治時代を代表する書家

 

中林梧竹(なかばやし ごちく) 1827年~1913年

中林梧竹(小城市立中林梧竹記念館蔵)

小城市立中林梧竹記念館蔵

近代書道の祖、「明治三筆」の一人。小城市出身。小城藩の藩校「興譲館」で学び、多久の儒学者・草場佩川(はいせん)に師事。幼い頃から書の才能を発揮し、10代で江戸に遊学、山内香雪や市川米庵から書を学んだ。帰藩後は、興譲館指南役などを務める。45歳頃から一切の職を辞して書に専念し、1882(明治15)年、中国に渡り、北京の潘存(はんそん)に師事。六朝書体や墨絵の技法を学び、芸術性豊かな書風を確立、明治書壇に新しい風を吹き込む。1891(明治24)年、副島種臣の勧めにより、王羲之(おうぎし)の十七帖臨書を明治天皇に献上する。1898(明治31)年、72歳(数え年)の時には自身が書いた書「鎮國之山」を陽刻した銅碑を富士山頂に建立した。
 

 

SPOT7 青年教育に尽力した社会教育家

 

田澤義鋪(たざわ よしはる) 1885年~1944年

田澤義鋪(一般社団法人田澤記念館提供)

一般社団法人田澤記念館提供

社会教育家。「青年団の父」と呼ばれる。鹿島市出身。1909(明治42)年、東京帝国大学(現 東京大学)を卒業後、内務省に入省。翌年、25歳の若さで静岡県安倍郡へ出向し、郡長に就任。学校とは無縁だった地方農村の青年たちに教育や自己修練の場を与える活動に力を注ぎ、青年団を指導。1931(昭和6)年、東京都小金井の浴恩館に青年団講習所を開設。1933(昭和8)年、盟友の下村湖人を講習所長に迎え、ともに青年教育に従事した。公明選挙運動や労使協調運動に尽力したことでも知られる。
 

下村湖人(しもむら こじん) 1884年~1955年

下村湖人(下村湖人生家保存会提供)

下村湖人生家保存会提供

教育者、社会教育家、小説家。神埼市出身。熊本の旧制第五高等学校で田澤義鋪と出会い、信頼し尊敬する友として終生変わらぬ友情を深める。東京帝国大学(現 東京大学)を卒業後、母校の旧制佐賀中学校で教鞭をとり、旧制の鹿島中、唐津中、台中第一中、台北高校の校長などを歴任。1933(昭和8)年、盟友の田澤義鋪が開設した青年団講習所の所長となり、共に青年教育に従事。田澤義鋪の生涯を描いた『この人を見よ』や青少年の成長を描いた名作『次郎物語』などを残している。
 

SPOT8 日本の工学・化学分野の先駆者 

 

志田林三郎(しだ りんざぶろう) 1855年~1892年

志田林三郎(多久市郷土資料館蔵)

 多久市郷土資料館蔵

日本の電気工学の祖。多久市出身。多久の学問所「東原庠舎(とうげんしょうしゃ)」で学んだ後、1873(明治6)年に工部大学校(現 東京大学工学部)の第1期生となる。世界初の電気工学専門の高等教育機関であった電信科で学び、首席で卒業。1880(明治13)年、イギリスのグラスゴー大学に国費で留学し、最優秀論文賞を受賞。帰国後は、工部大学校教授の傍ら、工部省の技術官僚としても活躍。1888(明治21)年、自ら創設した電気学会では、電気工学の発展がもたらす現代のIT社会を予見した演説を行うなど、すでに100年以上先の未来を見据えていた。
 
 

黒田チカ(くろだ ちか) 1884年~1968年

黒田チカ(お茶の水女子大学蔵)

 お茶の水女子大学蔵

女性の化学分野での日本初の理学博士。佐賀市出身。1902(明治35)年、女子高等師範学校(現 お茶の水女子大学)理科に入学。卒業後、義務奉職を経て同校研究科に学び、助教授となる。1913(大正2)年、29歳で東北帝国大学化学科に合格し、最初の女子大学生の一人となる。卒業研究で紫根色素の構造決定を成し遂げ、学会発表した。イギリス留学後、母校の女高師で教鞭をとりつつ、1923(大正13)年から理化学研究所で紅花色素の研究を行い構造決定に成功し、1929(昭和4)年、45歳で理学博士となる。「紅(べに)の博士」の名で呼ばれる。
 

SPOT9 日本を代表するお菓子メーカーの創業者

 

森永太一郎(もりなが たいちろう) 1865年~1937年

森永太一郎(森永製菓株式会社提供)

森永製菓株式会社提供

森永製菓の創業者。伊万里市出身。1888(明治21)年に渡米し、足かけ12年にわたる修業で西洋菓子の製法を習得。1899(明治32)年に帰国し、現在の東京都港区虎ノ門付近に、今日の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を開設。まだ和菓子が主流の時代に西洋菓子の普及に奔走した。1914(大正3)年、49歳の時に紙サック入りの「ポケット用ミルクキャラメル」を発売し、爆発的な人気を呼ぶ。日本初の一貫製造によるミルクチョコレートをはじめ、飲用ココア、マリービスケットなど数々のロングセラー商品も生み出した。
   
 
 

江崎利一(えざき りいち) 1882年~1980年

江崎利一(江崎グリコ株式会社提供)

江崎グリコ株式会社提供

江崎グリコの創業者。佐賀市出身。37歳の時に有明海につながる早津江川河畔で漁師が牡蠣の煮汁を捨てる様子を見て、かつて読んだ薬業新聞の「牡蠣に栄養素グリコーゲンが大量に含まれている」という記事を思い出し、グリコーゲンを使用した栄養菓子の開発に着手。1921(大正10)年に佐賀から大阪へ拠点を移し、合名会社江崎商店を設立。この翌年、40歳の時に栄養菓子グリコを三越で発売。グリコの顔として知られるゴールインマークは、八坂神社(佐賀市)の境内でかけっこしている子供たちの姿からヒントを得て考案された。
 
 
 

SPOT10 近代医学の礎を築いた医学者

 

伊東玄朴(いとうげんぼく) 1800年~1871年

伊東玄朴(神埼市蔵)

 神埼市蔵

蘭方医。近代医学の祖。神埼市出身。16歳で漢方医学を学び、23歳で佐賀の蘭方医島本良順に、翌年、長崎でシーボルトに学ぶ。1826(文政9)年、江戸に出て、1833(天保4)年に蘭学塾象先堂を開き、門人を育成した。1843(天保14)年、佐賀藩10代藩主鍋島直正の侍医となり、天然痘予防の種痘の必要性を直正に進言。1849(嘉永2)年、直正は我が子に種痘をし、江戸では玄朴が種痘を広めた。1858(安政5)年、玄朴らが神田に設立したお玉ヶ池種痘所は、後に東京大学医学部に発展し、近代医学の礎となった。
 
 

相良知安(さがら ちあん) 1836年~1906年

相良知安
蘭方医。日本にドイツ医学を導入した医学者。佐賀市出身。藩校「弘道館」から蘭学寮、医学寮(後の好生館)で学ぶ。1861(文久元)年、26歳で佐倉(現在の千葉県)の「順天堂塾」に入門し、蘭医学を学び、塾頭として頭角を現す。その後、長崎で蘭医ボードインに師事。佐賀藩10代藩主鍋島直正の侍医となり、1869(明治2)年、明治政府の「医学校取調御用掛」を命じられ、ドイツ医学を導入。1872(明治5)年、第一大学区医学校(現 東京大学医学部)の初代校長となり、『医制略則』を起草。今日にまで続く近代医学制度の基礎を築いた。
 
 

SPOT11 知的障がい児教育・福祉の先駆者

 

石井亮一(いしい りょういち) 1867年~1937年

石井亮一(社会福祉法人滝乃川学園蔵)

社会福祉法人滝乃川学園蔵

社会事業家。佐賀市出身。熱心なクリスチャンで、立教女学校教頭の時に発生した「濃尾大震災」で両親を失った少女たちを引き取り、1892(明治24)年、東京下谷に「孤女学院」(仮宿舎)を開設。翌年、滝野川村に院舎を建設し、本格的に運営を始める。引き取った少女たちの中に知的障がい児がいたため、知的障がい児教育の必要性を深く感じ、教育法などを学ぶために渡米。帰国後、同院を「滝乃川学園」に改め、日本初の知的障がい児教育を本格的に始める。妻筆子とともに知的障がい児教育・福祉に生涯を捧げた。
 

石井筆子(いしい ふでこ) 1861年~1944年

石井筆子(社会福祉法人滝乃川学園蔵)

 社会福祉法人滝乃川学園蔵

近代女子教育者。長崎県大村市出身。石井亮一と共に日本初の知的障がい児教育・福祉に努めた。1880(明治13)年、19歳の時に皇后の命でフランス留学し、帰国後、津田塾大学を創立する津田梅子とともに華族女学校の教師となり、女子教育に熱意を示した。同郷の小鹿島果(おがしまはたす)と結婚したが死別。知的障がいがある娘を滝乃川学園に預けた縁で石井亮一と再婚。亮一を献身的に支えながら知的障がい児の保護に努め、その自立を支えた。
     
 
 
 

SPOT12 大企業へと発展させた実業家

 

中冨三郎(なかとみ さぶろう) 1876年~1957年

中冨三郎(久光製薬株式会社提供)

久光製薬株式会社提供

久光兄弟合名会社(後の久光製薬)初代社長。鳥栖市出身 旧姓 久光三郎。祖父の久光仁平が1847(弘化4)年に創業した製薬・売薬の家業を継ぎ、1903(明治36)年、27歳の時に佐賀県三養基郡田代村に設立された久光兄弟合名会社の社長に就任。和紙に薬を延ばした膏薬「朝日万金膏(まんきんこう)」(鎮痛消炎貼付剤)や「快復丸(かいふくがん)」(健胃下剤)などを販売し、国内や海外に販路を伸ばす。1934(昭和9)年、58歳の時には、のちに国民的な貼り薬となる「サロンパス」を発売し、久光製薬の礎を築いた。
 
 

市村清(いちむら きよし) 1900年~1968年

市村清(株式会社リコー提供)

株式会社リコー提供

リコー三愛グループの創業者。みやき町出身。29歳の時に理化学研究所が開発した感光紙の販売代理店を開業。その業績が買われ理化学興業株式会社の感光紙部長に抜擢、36歳の時に感光紙部門を理研感光紙株式会社(後のリコー)として創立。1950(昭和25)年、50歳の時に二眼レフカメラ「リコーフレックス3」を発売し、国内でカメラの一大ブームを巻き起こす。1963(昭和38)年、市村記念体育館を佐賀県に寄贈。同館は「肥前さが幕末維新博覧会」(2018年3月17日~2019年1月14日開催)のメインパビリオン「幕末維新記念館」となった。
 
 
 
 

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