|
神埼工業団地計画として出発した約70ヘクタールの広大な土地から吉野ヶ里遺跡がまるごと出現し、その主要部分が保存・整備・活用され、吉野ヶ里歴史公園として、4月21日の一部開園をめざし、 建設が進められている。
ところが、歴史公園の北側に広がる約27ヘクタールの広大な遺跡包含地が、「吉野ヶ里ニューテクノパーク」の名のもとに、企業誘致のためとして長年放置され、その保存・整備・活用について論議をよんでいる。企業誘致ができないことは今日の経済情勢のもとではやむを得ないことと見切りをつけ、この際、吉野ヶ里歴史公園を拡大し、さらにいっそう充実させることを内容とする新しい計画を立案すべきではないかと考える。
弥生時代も後期になると、当時の中国の歴史書「魏志倭人伝」にも書かれているように倭の国には「大人」と呼ばれる貴族階級に類するものが出現する反面、「生口」とよばれる奴隷階級も出現し、階級や身分格差が顕著になっていった時代であった。現在進行中の吉野ヶ里歴史公園は、原始国家出現当時の都市的空間の復元に力が注がれ、それはそれとして威容を示しつつある。そのほかに、弥生の野、弥生の森などあるが、同じ時代に生きていた一般庶民の日常的な生活実態をしのばせる居住区の復元がいまひとつ物足りないとの感想を私たちは抱いている。
「吉野ヶ里ニューテクノパーク」の名で工業団地化をはかっている区画のなかにあって「記録保存」の名のもとに、消滅されようとしている志波屋六の坪乙地区遺跡こそは、多様な吉野ヶ里遺跡の中でももっとも顕著な庶民の生活遺跡である。ここには、後期前半から終末期の竪穴住居跡が74基も密集しているほか、同時代の掘立柱建物跡が31基も発見された。特に注目すべきは、弥生時代の井戸跡が吉野ヶ里遺跡全体のなか唯一基ここで発見されていることである。志波屋六の坪乙地区遺跡が復元され、吉野ヶ里歴史公園の中身をいっそう充実させることができるなら、吉野ヶ里歴史公園の声価はいっそう高まるに違いない。
佐賀県議会が、この請願を採択されるようお願いする。
平成13年3月6日
佐賀県議会議長 宮 原 岩 政 様
紹介議員 武 藤 明 美 宮 崎 泰 茂
|