遺産にまつわる物語
天和年間(1681~1684)に佐賀藩と筑前藩による国境論争が噴出した。その発端は、脊振山弁財天の祭礼で多聞坊の宮司(佐賀藩側)が上宮へ登ったところ、筑前早良郡の農民と居合わせることになり、筑前早良郡の農民は傷んだ堂の立て直しを命じられて来ていると主張したことから始まった(「光茂公譜考補」)。その後、佐賀側と福岡側の農民同士で書状による主張が繰り返し行われたが、貞享3年(1686)頃から、藩士や家老間の書状論争に発展。元禄5年(1692)、筑前側は正式に幕府へ提訴することになった。元禄6年(1693)、裁許状が出され佐賀側の勝訴が決定し、元禄9年(1696)、藩主鍋島綱茂が国境や勝訴を後世に残すべく現在の石宝殿を建立した。
特徴
石造りの石宝殿と、石灯籠群、石鳥居、石門、玉垣・石段から構成される。石宝殿は花崗岩を整形加工したもので、四隅に方形柱の柱を立て、各壁面には十字の柱と貫が表現されている。屋根頂部の露盤と前面の扉に鍋島家の杏葉の紋が施されている。内部には、弁財天像を安置するため木製の厨子が設置されている。石燈籠群は、石宝殿の下方中段に左右両側に列を為して立ち並んでいる。記録上は合計52基に及ぶが、現在立っている状態を確認できるものは20基程度である。石鳥居は明神系(台輪)の構造を持つ。柱と貫は継ぎ目がなく、島木・笠木は中央部で接合される2本継ぎである。石門は、左右の門柱が方柱形を成し唐破風様の冠木を門柱に乗せる。玉垣・石段もともに石宝殿と同年代のものと推定される。
保存や活用の取組
脊振神社の春の大祭で弁財天祭りが5月2・3・4日に開催されている。5月3日には脊振神社(下宮)で神事が執り行われ、年に一度、当番地区総代が上宮の弁財天石宝殿を開帳する。脊振中学校はふるさと学習の一環として脊振登山を行い、清掃ボランティアや植物を学ぶ活動を通じ、脊振の自然・文化の学習を行っている。脊振地区の歴史遺産天然記念物等の調査、子どもたちへの伝承活動を行う「脊振を愛する会」では、石宝殿を含めた脊振地区の文化財パトロールを定期的に実施している。