国指定(史跡の部)01

2013年3月27日

 

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国指定特別史跡の部 

特別史跡 名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)

昭和30年8月22日指定
唐津市鎮西町・唐津市呼子町、東松浦郡玄海町
近世城郭


 名護屋城跡は文禄・慶長の役(1592~1598)で朝鮮半島への侵略の根拠地となった城である。周囲には豊臣秀吉の号令一下、参集した全国諸大名の陣跡が2市町にまたがって広く分布している。
 築城は、各大名への割普請で行い、天正19年(1591)に築き始め、わずか5ヶ月で一応の完成を見たといわれる。当時としては、大坂城に次ぐ大きさの本格的な城郭であり、総面積17ha余りに及ぶ。
 また、陣跡は、徳川家康陣跡、石田三成陣跡など、現在120カ所あまりが確認されている。石垣、土塁、堀、建物跡、門跡などの遺構が良好に残っているものが多く、それぞれが中世山城を思わせる規模、構造をもつ。
 このような景観は同時期に描かれた「肥前名護屋城図屏風」(県指定重要文化財)からもよく知られる。                     

名護屋城跡並陣跡名護屋城跡並陣跡

特別史跡 基肄(椽)城跡(きいじょうあと

昭和29年3月20日指定
三養基郡基山町小倉
古代城郭


 日本が唐・新羅と戦って敗れた白村江の戦いの後、665年に国内防備のため築かれた朝鮮式山城である。標高400m余りの基山と坊住山の2峰にまたがって築かれており、山頂からは博多湾、有明海が一望できる。
 「日本書紀」では、百済の遣臣が築城指揮にあたったことを記しており、その点は朝鮮式山城とされるその構造的特徴にも明らかである。城域は総延長4.3kmにわたって土塁が尾根上を一周し、途中に門跡3カ所、水門跡1カ所、また城内には建物跡40棟以上がある。
 南水門は、長さ26m、高さ約8mにわたって谷をふさいだ石塁の下部に方形通水口を設けたもので、谷水を逃がすための施設である。建物跡は全て巨大な礎石を用いた総柱倉庫で、有事の際の食糧、兵器等を蓄えたものと考えられる。

基肄(椽)城跡基肄(椽)城跡

特別史跡 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)

平成3年5月28日指定
神埼市・吉野ヶ里町
集落跡・古墳


 吉野ヶ里遺跡は、上記2市町にまたがる吉野ヶ里丘陵の南部に位置する。昭和61年からの本格的な発掘調査で弥生時代を中心とする大規模な遺跡の内容が明らかになり、全国的に注目を集めた。
 弥生時代の前期には丘陵南部で広さ約3haの環壕集落が形成され、中期にはその規模を拡大、約40haの大環壕集落へと発展する。さらに後期には環壕内の南と北の2カ所に内堀によって囲まれた区画(北内郭、南内郭)がつくられる。
 約2500基発掘された甕棺墓を主体とする弥生時代墓地の中で、特に際だった存在は北内郭にある北墳丘墓(弥生中期)である。復元すると南北46m、東西28m、高さ4.5mの規模と推定される。発掘した14基の甕棺墓から8本の銅剣や79点のガラス管玉などが発見され、一般の墓地とは格段の身分差を示している。
 吉野ヶ里の環壕集落は、防御的な性格のものとして、計画的に形成された大規模集落であり、まさに「魏志倭人伝」が伝える倭のクニグニの姿を思わせる拠点集落として重要な要素をもつものである。
 

北内郭(左)  南内郭(右)

吉野ヶ里遺跡吉野ヶ里遺跡  

吉野ヶ里遺跡吉野ヶ里遺跡

  

    北墳丘墓出土品(左)  吉野ヶ里遺跡出土銅鐸(右)

        

国指定史跡の部 

史跡 安永田遺跡(やすながたいせき)

昭和57年12月18日指定
鳥栖市柚比字安永田454
集落跡・埋葬施設


安永田遺跡
 鳥栖市・基山町にまたがる標高約50mの柚比丘陵上に立地する。弥生時代中期を中心とする大規模な集落跡・墓地からなる遺跡で、大正2年に甕棺墓や銅戈・銅矛などの青銅器が発見されたことで、古くから注目されていた。
 昭和54年に鳥栖市教育委員会が実施した範囲確認調査で銅鐸鋳型片が出土し、九州地方の「銅剣・銅矛文化圏」近畿地方の「銅鐸文化圏」という従来の青銅器分布の定説に大きな影響を与える画期的な発見となった。
 さらに昭和55・56年の発掘調査では、多数の住宅跡・甕棺墓・炉跡状遺構・溝と共に、銅鐸鋳型片・銅矛鋳型片・ふいごの羽口などが出土しており、この遺跡で青銅器の鋳造を行っていたことが確実となった。

史跡 土生遺跡(はぶいせき)

昭和48年6月2日指定
小城市三日月町久米2488
集落跡


土生遺跡
 晴気川と祇園川により形成された扇状地の先端近くの地点、標高7mに立地する。
 昭和46年に鉱害復旧工事に際して発見され、県教育委員会による発掘調査が行われた。さらに圃場整備事業に伴う発掘調査により、弥生時代前期に始まり後期まで営まれた大規模な集落跡であることが確認された。
 これまでの調査で、住居跡・貯蔵穴・井戸跡などが確認されている。住居跡には柱根が残っているものもあり、また敷き板を敷いたり横木を渡しているものもみられた。
 遺物は、大量の土器と共に石器(石斧・石庖丁・砥石)、木製品(鍬・竪杵・杓子・織具・高坏)が出土している。土器の中には、胴部に牛角状の把手をもつ壺や口縁部に粘土紐を貼り付けた瓶があり、朝鮮の無文土器の影響が認められる点が注目される。
 なお、平成4年に三日月町教育委員会が実施した指定地外の発掘調査で、全国初の青銅製ヤリガンナ鋳型が出土した。
 現在、遺跡の一部で竪穴住居・高床倉庫が復元整備されている。

史跡 菜畑遺跡(なばたけいせき)

昭和58年5月11日指定
唐津市菜畑字松円寺3355-1
集落跡


菜畑遺跡
 唐津市の南西部、衣干山から延びた低丘陵の先端部に立地する。東側には松浦川によって形成された砂丘があり、当時この一帯はその砂丘の後背湿地であったと考えられる。
 昭和54年、都市計画街路事業に伴う確認調査で発見され、昭和55・56年に唐津市教育委員会によって発掘調査が実施された。
 発掘調査の結果、住居跡・土壙墓・甕棺墓・水田跡・井堰・貝塚が検出され、縄文時代前期から弥生時代中期にかけての遺跡であることが確認された。水田跡は畦畔や矢板列によって区画されており、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて数期にわたる変遷が明らかになった。最下層の水田跡からは、炭化した米や木製農具とともに縄文時代晩期後半の土器が出土し、現在確認できる日本最古の水田跡として注目を集めるところとなった。
 遺物は多数の土器の他に、石器、木製農耕具、漁具、容器、装身具等があり、また自然遺物も多く出土している。
 現在、遺跡は保存整備により竪穴住居や水田が復元され、資料館「末盧館」も建設されている。

史跡 葉山尻支石墓群(はやまじりしせきぼぐん)

昭和41年12月19日指定
唐津市半田葉山尻1540-3
埋葬施設


葉山尻支石墓群
 飯盛山から北に延びる標高約30mの丘陵北端に立地する。縄文時代晩期末から弥生時代中期の支石墓・甕棺墓を主体とする遺跡で、昭和26年発見され、昭和27・28年に県教育委員会が発掘調査を行った。
 調査により、支石墓6基・甕棺墓26基・古墳1基が確認されている。
 支石墓は、上石がいずれも花崗岩で、6~8個の支石で支える構造である。甕棺墓には管玉が副葬されていた。
 この遺跡は弥生時代墓制と朝鮮半島墓制のつながりを研究する上で重要である。

史跡 田代太田古墳(たしろおおたこふん)

大正15年11月4日指定
鳥栖市田代本町1370
古墳


田代太田古墳
 大木川と山下川によってはさまれた河岸段丘上、標高51mに立地する。周辺には複数の前方後円墳が存在し、早くから装飾古墳として知られていた。
 墳丘は一部削平を受けているものの、2段築成の円墳と考えられ、現在直径約40m、高さ約6mである。内部主体は後室・中室・前室の3室からなる横穴式石室で石室全長約9m、後室天井部はドーム状のもち送りで、高さ約3.1mである。
 装飾壁画は後室奥壁と中室に赤・黒・緑の3色を用い、岩肌の黄色を利用して効果的に描かれている。図形は連続三角文・同心円文・蕨手文・花文の他、挙手人物像・騎馬人物像、船、楯、高坏などである。
 出土遺物や石室構造により6世紀中~後半の築造と考えられる。昭和50~51年にかけて保存工事を実施した。

史跡 銚子塚古墳(ちょうしづかこふん)

昭和30年1月1日指定
佐賀市金立町大字金立字八本杉2355
古墳


銚子塚古墳
 佐賀平野における最古期の大型前方後円墳である。脊振山系の南麓部に近い、標高約15mの微高地上に築かれ、首長墓としての風格に満ちた堂々たる姿を見せている。
 墳丘は前方部を西に向け、全長98mで佐賀平野2番目の規模を誇る。後円部に比べ前方部が低く幅の狭い典型的な古式古墳で、その名のとおり銚子型をしている。周囲には、幅約20mの周壕をもつ。
 墳丘は後円部3段、前方部2段築成と推定され、花崗岩円礫の葺石を持つ。また底部に穴を空け、丹を塗った土師器壺が6個以上出土している。これらは埴輪の原形にあたる用途が推定できる。
 4世紀後半に築造されたと推定され、佐賀平野における古墳文化の伝播と成立に重要な関わりを持つ古墳である。

史跡 西隈古墳(にしくまこふん)

昭和50年6月26日指定
佐賀市金立町西隈大字金立2936-5
古墳


西隈古墳
 脊振山から派生する金立山南麓の丘陵、標高30mに立地する。墳丘は裾部を宅地や畑により削平されているが、比較的遺存状態はよい。推定径40m、高さ4mの2段築造の円墳で、墳丘上から形象埴輪、円筒埴輪の破片が採集され、葺石も一部確認されている。
 内部主体は初期横穴式石室で内部に横口式の家形石棺を納める。玄室は長さ3.3m、幅1.5m、高さ1.7mで、赤色顔料を塗る。
 石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で長さ2m、幅1.1m、高さ1.3mであり、4枚の板石を組み合わせた棺身に、かまぼこ状の寄棟屋根型蓋を載せる。また、コンパス痕を残す円文や連続三角文の装飾がみられる。
 5世紀末の築造と推定され、石棺系装飾古墳の代表として重要である。

史跡 谷口古墳(たにぐちこふん)

昭和16年12月13日指定
唐津市浜玉町谷口字立中866-2
古墳


谷口古墳
 城山西麓にあたる独立丘陵状の尾根の先端部に築かれた、周溝のない前方後円墳である。全長77mで、前方部が低い古式形態を示し、墳丘に葺石を有する。
 埋葬主体部は、長く竪穴式とされてきたが、平成元年の発掘調査で初期横穴式石室の要素をもつ横口構造であることが判明した。石室は東西2室あり天井部が特異な合掌式である。規模は東室が長さ2.95m、幅1.6m、西室が長さ3.16m、幅1.85mである。両室とも松浦砂岩製の豪壮な長持型石棺を納める。また、石室外に刳り抜き式の舟形石棺と土師器壺棺も見つかっている。
 出土品は、日本製の三角縁神獣鏡のほか位至三公鏡、変形四獣鏡、石釧、玉類、鉄器類と極めて豊富である。
 築造時期は4世紀末頃と推定され、玄界灘沿岸における古墳文化の伝播と展開を知るうえで重要である。東石室は保存修理を実施した。

 

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