新しい文化財の紹介
このコーナーでは、新しい文化財を紹介します。(国指定、国登録、国選定、国選択、県指定)
1. 平成22年 2月 4日答申 県重要文化財 4件
2. 平成22年 2月22日告示 史跡 1件
3. 平成22年 2月22日告示 登録記念物 1件
県重要文化財 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足(せいしつぬりもえぎいとおどしにまいどうぐそく)
平成22年2月4日答申
財団法人鍋島報效会 佐賀市松原二丁目5番22号
工芸品
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初代佐賀藩主鍋島勝茂(1580-1657)が着用した総体青漆塗の当世具足。 兜高 29.0cm 胴高 45.0cm
青漆とは漆に石黄(せきおう)等を混ぜて青緑色に発色させたもので、桃山時代以降の甲冑にまれに見られる。
兜は桃の実を象った桃形兜で、古様な杏葉紋の前立をつける。桃形兜は西洋の兜の影響を受けて作られた変り兜の一形式で、桃山から近世初頭にかけて佐賀藩をはじめ福岡藩、柳川藩など九州各地で特に多く用いられた。胴は鉄板に漆で小札(こざね)の刻みを盛上げて本小札のように見せた切付盛上小札の板を上下に連ねて固定し、左脇の蝶番で開閉して着用する二枚胴である。
寛永14年(1637)島原の乱の折に勝茂が着用し、その5年後に末男直長(明暦元年に神代家の家督を相続)に与えられた。その後は直長の息子茂真に始まる鍋島内記家に幕末期まで伝来。
(附) 輪金 一点、 鍋島内記茂生書付 一通、 鎧櫃 一合
県重要文化財 鉄絵緑彩松樹文大皿(てつえりょくさいしょうじゅもんおおざら)
平成22年2月4日答申
個人蔵
工芸品
小さな高台(こうだい)から大きく開く器形であり、口縁部はやや幅広の鐔縁(つばぶち)に作る。白化粧土を施し、見込みに大きく松樹を描き、口縁部にも唐草文を配している。
高台は二箇所に凹形の切り込みを入れた割り高台となっている。絵付技法は、鉄絵で幹や大枝などの輪郭線を描き、そして銅緑釉(どうりょくゆう)で葉や幹の芯の部分などを彩色する「二彩手(にさいで)」で、近年ではこの技法を「鉄絵緑彩」と呼んでいる。
本品は、唐津焼が武雄地域を中心に新たな展開をみせた1620~40年代を代表する作例である。器形は同時期の肥前磁器との類似性が高く、朝鮮半島を起源とする肥前陶器が、肥前磁器の登場に影響されつつ新たな展開を見せたことを示す作例でもある。
口径47.3cm、高さ17.0cm、底径14.2cm
県重要文化財 洪家伝来洪浩然関係資料(こうけでんらいこうこうぜんかんけいしりょう)
平成22年2月4日答申
佐賀県立名護屋城博物館 唐津市鎮西町名護屋1931番地3
歴史資料
洪浩然は文禄・慶長の役(1592-1598)に際し、朝鮮国の晋州城(チンジュソン)付近で鍋島直茂の軍に捕らえられ、佐賀に連れてこられた。
書に優れた才能を持つ彼は、京都五山で数年間学んだ後、初代藩主鍋島勝茂の側近くに仕え、明暦3(1657)年4月、主君勝茂の訃報に接しすると「忍」の書を遺し、阿弥陀寺(現佐賀市木原)で追い腹を切った。
洪浩然の書は文字の書き出しと止めの部分が力強く大きくなる独特の筆致を持ち、その書風から彼は「こぶ浩然」とも呼ばれている。
浩然の書は当館蔵の資料の他、佐賀県内及び近隣の県にもその所在が確認されているが、頂法寺本堂(京都市)の寺号木額や英彦山神宮(福岡県添田町)の銅造鳥居、さらには與止日女神社(よどひめじんじゃ)(佐賀市大和町)等の石造鳥居などにも刻まれている。これらのことから能書家として高く評価されている。
洪家伝来洪浩然関係資料 24点
(附)その他洪家伝来資料 68点
県重要文化財 「背振山」銘銅製経筒(「せふりさん」めいどうせいきょうづつ)
経筒 4口
平成22年2月4日答申
佐賀県立博物館 佐賀市城内一丁目15番23号
考古資料
脊振山は福岡・佐賀両県の県境にある脊振山系の最高峰(標高1,055m)で、古くから天台宗の霊場であった。
「背振山」銘銅製経筒4口は、側面に線刻されている銘文から、脊振山中腹に所在する霊仙寺跡(りょうせんじあと)に埋納されたものの一部と考えられている。いずれも鋳銅製の円筒式であり、極めて類似した形態・法量であるが、蓋のつまみや底部形態・銘文に小異がある。
1号経筒は総高35.6cm。蓋(ふた)は相輪形(そうりんがた)のつまみの付いた笠形である。
2号経筒は総高36.0cm。蓋は相輪形のつまみの付いた笠形である。
3号経筒は総高27.5cm。蓋は宝珠形(ほうじゅがた)のつまみの付いた笠形である。
4号経筒は総高27.5cm。蓋は宝珠形のつまみのある笠形である。
銘文は1号経筒が最も明瞭であり、康治元年(1142年)11月16日、「□西□前洲背振山」において僧「増忍(ぞうにん)」によって「勸進(かんじん)」され、供養・埋納された法華経(妙法蓮華経)12部の一部であることがわかる。
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左から、1号経筒、2号経筒、3号経筒、4号経筒
史跡 姉川城跡(あねがわじょうあと)
平成22年2月22日告示
神埼市神埼町姉川
中世の城館跡と周囲の集落跡
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南北朝期にこの地に土着した、菊池氏の分族を称する姉川氏が構えた城とされ、戦国末期までその居城となっていた。
1570~80年代頃、龍造寺隆信が姉川氏を服属させた後は、龍造寺氏の神埼郡支配の要衝とされた。天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州統一後は、国内の城郭の統廃合政策に伴い廃城となったと推察される。
遺跡規模は東西最長600m、南北最長800mに及び、その中核となる姉川城本体が遺跡全体の東半域を占めている。城の中心部は平面台形状の半町ほどの曲輪(くるわ)で、内部に大型建物や門を備えていたことが過去の試掘調査で判明している。
その周囲には小規模な曲輪群や家臣屋敷跡、寺社跡などが付属し、さらにその西側外縁の中地江川沿いに、一般住人や下級武士層の小規模な屋敷群が並んでいる。各空間は大型の濠で細分され浮島状をなしており、中世以来の「水辺」の村落景観が広範かつ良質な状態で、現在もなお保たれている。
登録記念物 旧武雄邑主鍋島氏別邸庭園(御船山楽園)(きゅうたけおゆうしゅなべしましべっていていえん(みふねやまらくえん))
平成22年2月22日告示
武雄市武雄町大字武雄 (御船山観光ホテル)
庭園
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旧武雄邑主鍋島氏別邸庭園は、御船山の断崖絶壁の南西麓において、弘化2年 (1845)に武雄邑主鍋島茂義が京都から狩野派の絵師を招いて造った、「萩の尾園」という別邸の池泉庭園を基礎とする。
明治初期には一般に公開されていたようであるが、明治末年には荒廃したため、鍋島家が庭師巌谷喜平に管理を任せると、巌谷は庭園の区域を拡張しサクラや大量のツツジを植え、遊覧の名所としたという。大正13年(1926)に発行された『武雄案内』には、「萩の尾のお茶屋」として紹介されている。
現在は、御船山楽園として公開されており、サクラ、ツツジ、紅葉の名所として多くの来園者で賑わっている。見上げる者を圧倒する御船山の断崖絶壁の景観は、麓に群植された無数のツツジと調和して、雄大で美しい。また、北西畔に数寄屋造りの茶屋が建つ池泉の景観からは往時が偲ばれる。
お問い合わせ先
佐賀県教育庁 社会教育・文化財課
メールアドレス: syakaikyouiku-bunkazai@pref.saga.lg.jp

小さな高台(こうだい)から大きく開く器形であり、口縁部はやや幅広の鐔縁(つばぶち)に作る。白化粧土を施し、見込みに大きく松樹を描き、口縁部にも唐草文を配している。


