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シーズン1「~その時、佐賀は世界を見ていた」

最終更新日:

(2016年9月14日~11月16日 放送分 全10回)

 
 

第1回 鍋島直正(2016年9月14日放送)

 


 

マスター:ああ富田さん。また、いらっしゃいましたね。

 

富田さん:ああ、マスター。もう夏休みが終わったと思ったら、僕たちより学生さんたちが何やら忙しそうですね。

 

マスター:ええ。はい、いつものWISEブレンドです。

 

富田さん:頂きます。

 

マスター:まぁ確かに、秋は文化祭やら体育祭やら、行事が多いですからね~。

 

富田さん:うん、そういえばマスターの高校時代って?

 

マスター:あの当時はこうみえて、リーゼントにしていたんですよねぇ。

 

富田さん:(笑う)

 

マスター:いまからは想像つかないでしょう?

 

富田さん:全然つかないです。

 

マスター:えっへっへっへ…。

 

富田さん:

もうマスターがリーゼントでキメッキメにしてた高校生の頃、佐賀藩の歴史上の中では、高校生にあたる年代の頃からもう、メキメキ頭角を現して、活躍した人たちがいるんですよ。

 

マスター:ほぉーう?

 

富田さん:何と言ってもその代表格が、鍋島直正公です。

  

マスター:あの方は何代目の佐賀藩主になられたんでしたっけ?

 

富田さん:

直正公は、10代目の佐賀藩主なんですよね。この方、数え年で17歳で10代佐賀藩主に就任されてるんですよね。
若い頃から将来の藩主としての専門のトレーニングを受けてきて、その後48歳で隠居するまで約30年間、藩主を続けるんですけど、その時代というと、外国の船が次々姿を現して開国を要求する…そういった緊張感のある中で佐賀藩は“長崎の港の警備”という大任を幕府から任されてたんですね。
そういった中で外国船が、日本の船とサイズからしてもう全く違う巨大な威圧感と共にやってきます。
我が国、佐賀藩も、それに対抗するにはどうしたらいいか。
直正公の時代にやったのが「同じものを造ろう」って言うんですね。
まず鉄製の大砲を作るために造った施設が「反射炉」です。

                

マスター:ええ。

 

富田さん:

そして、日本では初めて鉄製の大砲造りに成功します。
それからもう1つ、蒸気船。これも外国から購入したり、2015年、世界遺産になった三重津海軍所跡ってありますけど、あそこで、日本で初めての実用的な蒸気船の建造にも成功するんですよね。

                 

マスター:う~ん。

 

富田さん:

いずれもこの日本初の事業、直正公といえばこの「大砲造り・船造り」がまず出てくるんですが、直正公はリーダーですから、技術者でもなければ科学者でもないんですよね。
船を造った、大砲を造ったそのものというよりも、むしろ藩主として、リーダーとして部下たち、藩士たちの、心をどう掴んで動かしていったかという、そこが藩主直正公の魅力なんですよね。
幼少期から、藩主専門のトレーニングを受けてきた1つの中に佐賀藩を作った戦国時代の「鍋島直茂公」という佐賀藩祖と呼ばれてる方いるんですけれど、彼が残した言葉を学んでいるんですよね。
その一つにこういうのがあるんです。「人間というのは下ほど骨折り候ことよく知るべし」組織の中で一番底辺で、汗をかいて働いている人たちこそ一番上に立つ武将は気にかけないといけないんだ、という。
それを実践したエピソードが長崎警備の中で残っていまして、佐賀藩が反射炉で大砲を造ってそれを長崎の台場に据え付けるんですよね。

               

マスター:ええ。

 

富田さん:

そして間もなく、ロシアの軍艦が長崎に来るんです。
日本としては大事な交渉ですから、江戸から長崎の現場まで役人が実際にやって来て、ロシアらと交渉するんですよね。
そういった中で直正公は2つのことを耳にするんです。
1つはロシア船が、佐賀藩が沿岸部に造った台場とその大砲に非常に萎縮していたらしいぞ、ということ。それから、今回ロシア側と交渉するために江戸からはるばる長崎にやってきた幕府の役人が、その台場の様子を凄くお褒めになっていたということ。この2つを聞いた直正公は、すぐに長崎警備の担当主任を呼び出します。
そして「今からすぐに、台場の現場で貼りついて警備を続けている人たちのところに行ってこの2つのことを伝えてこい」と伝令を出すんです。
あの幕府の役人も褒めてくれていたということと、外国に対しても自分たちがやってることが効果のあることだという、その実感が得られますから。そういう意味でモチベーションを高めたんです。
まさに「下ほど骨折り候こと」、よく知っている直正公だからこその指示ですよね。

               

マスター:うわぁ…。(感心の声)

 

富田さん:佐賀藩といいますと、三十六万石という大きい生産額を持つ大大名と呼ばれる大きな藩ですけれども。

 

マスター:うん。

 

富田さん:

その中には、藩主の鍋島家だけではなく、たくさん鍋島家の分家があるんですね。
それぞれがこう独立して、自分の所領や、武力も持っているんですよ。
でも、そういうバラバラな佐賀藩だと、こうした日本初の大きな事業に取り組みにくいですよね。そこで、直正公が数十年ずっと言い続けたのが、色々な分家があるけれども、全ての分家にとっての“共通”の祖先というのは佐賀藩を作った初代藩主の鍋島勝茂公、そして戦国武将がそのお父さん直茂公ということなんです。

               

マスター:うん。

 

富田さん:その2人の時代に戻ろうというのを言い続けるんですよね。

 

マスター:(相槌)

 

富田さん:

まず、ALL佐賀藩という組織の力を、ベースを高めた上で、新しい取り組み、つまり、蒸気船造りや大砲造り、これに向かっていったということなんですよね。
新しい明治政府を中心にした新しい国家の始まりにも繋がっていくような、そういう一体感を佐賀藩が幕末に作っていたということですね。

               

マスター:今でさえ、みんな…。

 

富田さん:

「俺たちはサガンだ!」と。こう、自分たちを鼓舞するようなフレーズは私も大好きなんですけれども…。こう「SAGAN」とアルファベットで書くと五文字ですよね。S・A・G・A・N。GAとNの間に二文字「HA」っていうのを入れると「We are SAGAHAN」になるんですよね。

 

マスター:それ、どんどん推してくださいよ。

 

富田さん:「はい。マスターも是非使ってください。

 

マスター:何なら今日から使わせていただきます。

 

富田さん:「はい。あ、いけない。もうこんな時間だ。
じゃマスター、コーヒーご馳走様。

 

マスター:はぁい、ありがとうございました~。

 

 

 

第2回 佐野常民(2016年9月21日放送)

 


 

マスター:ああ富田さん。また、いらっしゃいましたね。

 

富田さん:

ああ、どうもマスター。今週は、祝日が飛び飛びだから、もうなんだかペースが取りにくいですし、昼と朝晩の気温差…。マスター体調とか崩していませんか?

 

マスター:今のところ大丈夫ですねぇ。

 

富田さん:健康診断とか、行っていますか?

 

マスター:まぁ、体が資本な仕事ですからねぇ…。毎年ちゃんと行っていますよ。

 

富田さん:お、偉い。

 

マスター:はい、いつものWISEブレンドです。

 

富田さん:

頂きます。
日本の医療といえば、佐賀藩の歴史を見た時に、この人の功績を外す訳にはいきませんよね。

 

マスター:おっと、来ましたね?どなたですか?

 

富田さん:「佐野常民」

 

マスター:あの、「日赤(日本赤十字)」を作った方ですよね?

 

富田さん:そうです。ただ実は、それだけじゃないんですよ。

 

マスター:おおー。

 

富田さん:

元々生まれ育ったところは、佐賀市の現在の川副町。
そして、11歳の時に佐賀の町に出てきまして、医者を志望して、医者の養子になるんですね。そのお医者さんの家が「佐野家」 で、やがてあの藩主の直正公に才能を認められて、江戸・大阪に留学するんですね。佐野が江戸・大阪の留学から戻ったのが30歳の時。 ただ、その時1人で戻って来ずに、色々な人物を佐賀に連れて来るんです。蘭学者や、科学者、技術者…。
その中の1人が久留米出身の田中儀右衛門という人物がいるんですけれども…。彼は、あのからくり人形などを作るのが得意な技術者なんです。 後に、二代目儀右衛門と呼ばれる方が、東京芝浦製作所という会社をつくりまして、それが後に「東芝」になっていく。そういうルーツになる人物を、佐賀に連れて来たんですね。
 目的はやはりヨーロッパの本の翻訳をしたり、その本を基に科学実験とか蒸気船を造るための研究、そういうのを進めるために連れてきたんですよね。
その研究をやる部署が「精煉方(せいれんかた)」と呼ばれる部署で、これは時の藩主・直正公の指導で設けられた部署なんです。佐野はそこの主任に抜擢されるんですね。

 

マスター:ほーう。

 

富田さん:

ただ、やはりヨーロッパの本を自分たちで翻訳して読み解いて、そこに書いてある物を製造していくというのは、至難の業なんですよね。
そこからなかなか、研究成果がすぐには上がらず、しかし人件費はどんどんかかりますから、藩内からは、その経費節減のために 精煉方の部署自体をもう廃止した方がいいという、廃止論まで起きるんですよね。
しかし、海外に対抗する必要性を強く感じていたのは、藩主の直正公。
 直正公は、この精煉方というのは俺の道楽でやっているんだからお前たちが制限するんじゃない、と言って、強くこの精煉方での研究を継続させたんですね。
その研究成果が、三重津海軍所で日本で初めての実用的な蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」の建造に成功する、という形に結びつくんですよね。

 

マスター:ほぉーう。

 

富田さん:

しかもですね、46歳の時には幕府が初めて参加した「万国博覧会」がパリで開かれるんですけども、その時に佐賀藩も単独で参加してる。
そのリーダーも佐野常民だったんですね。

 

マスター:ほう。

 

富田さん:

あの、若い時に大坂・江戸まで行って学んで、それをこの万博に派遣されたことをきっかけに、実際に自分の目で、生の西洋の状況を見たことで、机の上の知識を生きた知識に、彼は変換出来ているんですよね。
 例えば明治政府として初めて参加した万博は「ウィーン万博」なんです。
 佐野は幕末にパリ万博にすでに行っていますから、その経験が買われて政府の万博の副総裁に任命されるんですね。

 

マスター:ほぉー・・・。

 

富田さん:

ちなみにその総裁はというと、同じ佐賀出身の大隈重信なんですね。
 苦い経験も最初のパリ万博で味わっていまして、佐賀藩の特産品を海外に売り込むためですから、有田焼を持っていくんですね。
ところが、大量に万博で売れ残ってしまうという経験を味わうんですよ。
ですから、二回目のウィーン万博では、まず焼き物を素焼きの状態で窯元から東京に全部集めさせて、海外の好みを知ってる「万博事務局」の管理の下で、 西洋人好みの絵付け、デザインを施すという、そういう方法を取ったんですよね。

 

マスター:はい。

 

富田さん:自分の目で初めて見た経験を活かして、日本の工芸品を西洋に受けるようにアレンジしていく、やはり、その対応力が彼の魅力ですよね。

 

マスター:なるほど。

 

富田さん:

そして、日赤の創設者として有名ですけれども、彼が日本に赤十字をもたらそうと、世界ですでに行っていた赤十字の活動を知ったのも、やはり実際に海外に万博で行ったのがきっかけだったんですよね。
 対応力、そして、それをアレンジしていく、やはりその功績のマルチさ、変化への対応力というのがとにかく抜群なのが、この佐野常民ですね。
あ、マスター、今日も長くなってしまってもうこんな時間だ。
じゃ、コーヒーご馳走様でした。また来週。

 

マスター:ありがとうございました~。

 

 

 

第3回 島義勇(2016年9月28日放送)


 

マスター:ああ富田さん。また、いらっしゃいましたね。

 

富田さん:

ああどうもマスター。
あれ?今日は何磨いているんですか?いつものグラスとは違いますよね。

 

マスター:ああ、これですか。これは数年前に北海道旅行に行った常連さんからいただいた熊の木彫りの人形です。

 

富田さん:熊の木彫りの人形ですか。

 

マスター:そうなんですよ。大事にしてましてお気に入りです。

 

富田さん:ああ、だから磨いてるんですね。

 

マスター:ええ。

 

富田さん:でもマスター、北海道といえば佐賀藩の歴史とも縁の深い、この人の功績を外す訳にはいきませんよね。 

 

マスター:おっと?今日も来ましたね。 

 

富田さん:はい。

 

マスター:どなたですか?

 

富田さん:その人物が、島義勇。

 

マスター:前回お聞きした佐野常民さんと、同じ時代を生きた方ですよね。

 

富田さん:そうです、歳も全く同じなんですよね。

 

マスター:へぇー。

 

富田さん:

やはりこの時代、欧米諸国の開国の要求、その脅威を感じていた幕末。
アメリカのペリーとか有名ですけども、実はロシアもどんどん勢力を広げて南の方にやってくるんですね。

 

マスター:うん。

 

富田さん:

勢力を南に延ばしたその先にあるのが、蝦夷地。今の北海道なんですよね。
そこで時代が明治になりますと、明治政府はこの蝦夷地を開発していくための特設部局「開拓使」という役所を設置するんです。
その長官に任命されたのが元・佐賀藩主だった鍋島直正公。そしてその下で開拓使の職員になったのが、この島義勇なんですよね。

 

マスター:ええ。その島の実際の任務はどういうものだったんですか?

 

富田さん:

長官である鍋島直正公は、東京に居て現地には赴かないんですが、実際に現場の指揮をとったのが島義勇。 彼は北海道を開拓する上で拠点となる新しい町を作る必要があるということで、広大な土地の中から交通の利便性も考えて選び抜いた新都、新しい都の建設場所が今の「札幌」なんですね。

 

マスター:じゃあ、あの札幌は、佐賀出身の島が作りあげたと言っても過言ではないと。

 

富田さん:そうなんですね。

 

マスター:その使命を終えて、やはり佐賀に?

 

富田さん:

はい。佐賀には戻らずに、今度は2つめの仕事。今でいうと県のトップは知事ですけども、この時期は権令とか県令と言っているんですね。その秋田の県令に任命されるんです。
 最初の頃は東京の中にある、秋田県の出張所に勤務していたんですが、やはり現地に赴かないと、現地の実状も分かりませんし、課題も分からない。
そういうことで、今度は実際に秋田にまで島義勇は赴任するんです。

 

マスター:ほぉー。

 

富田さん:

あ、秋田といえば 北海道と似ているところもありまして、やはりロシアの脅威を感じる日本海側に位置しているということなんですよね。
そこで海の物流を発展させるための港湾建設を提唱したり、後は、先進的な医療が不十分だった秋田で、医学教育の充実を提唱しているんですね。2つとも結果的には、実現しなかったんですけれども、現地で具体的な対策を練っているんですね。

 

マスター:全身全霊で、その場所、土地をいいものにしようと…。

 

富田さん:

北海道も秋田も両方とも、佐賀からも遠いですし、東京からもまた遠く離れたこの地方に、実際に赴任した中で、島は東京みたいな街のコピーを作る訳でもなく、自分が生まれ育った佐賀みたいな町を各地方に作ろうとしたのでもないわけですよね。
やはり各地方特有の地位的な条件や、人々の暮らしを向上させるもの。それを察知してその土地に根差した必要な政策を彼はどんどん進めていったという意味で、土地への適応力というのが彼の魅力ですよね。

 

マスター:そりゃもう各土地土地で。

 

富田さん:はい。まさに喜ばれたというのを示すのが、北海道神宮という大きな北海道の神社があるんですけれども。

 

マスター:はい。

 

 

富田さん:そこ(開拓神社)の御祭神の1人になって、神になっているんですよね。

 

マスター:へぇ~。

 

富田さん:

遠く離れた北海道で、佐賀出身の男が、明治初期を駆け抜けたということですね。
あ、すみません。
 僕も駆け抜けなきゃ、もう時間がない。じゃ、マスターご馳走様!
それじゃあまた来週!

 

マスター:あらあら、相変わらずお忙しい人だ。またの御来店、お待ちしています。

 

 

 

第4回 副島種臣(2016年10月5日放送)


 

マスター:

ええ、ええ、ああ。じゃあ、お願いします。はい、はい。失礼致します。
やぁ、富田さん。またいらっしゃいましたね。

 

富田さん:マスター。その黒電話、まだ使えるんですか!?

 

マスター:

ええ、ボクの通信手段はここ40年、この黒電話だけですよ。
これで十分事足りますし、丈夫だし・・・。
はい。いつもの「WISEブレンド」です。

 

富田さん:いただきます。
マスターは伝統を重んじるタイプかぁ。
 佐賀の歴史上、伝統を重んじつつも新しい体制に柔軟に取り組んでいったといえば、この人は外せませんよね~。

 

マスター:お、今週も来ましたね。誰なんですか?

 

富田さん:副島種臣です。

 

マスター:副島種臣っていうと、気難しい学者タイプの人物という印象がありますが・・・。

 

富田さん:

確かに副島は父親が藩校の先生、お兄さんも学者という家庭環境に育ちました。
お父さんやお兄さんは「日本一君論」という考え方を持っていたんですね。
これは、天皇以外に君主はいないという考え方です。
そういった影響もあって若い頃の副島は、天皇が自ら政治を司っていた頃、つまり、古代日本の書物、古事記や日本書紀、ああいうのを読み漁っていたんですよね。

 

マスター:ほぉう。

 

富田さん:

マスターも知ってのとおり、江戸時代は京都に天皇はいらっしゃるけれど、政治の実権は江戸幕府という武家政権が握っています。
そんな時代に「天皇がワントップだ」という考え方を教え込まれたんですね。

 

マスター:そして、明治維新を迎えるんですね。

 

富田さん:

はい、副島はまず新政府の組織体制とか、最も基盤となるルール作りの分野を手掛けます。
 明治政府は、天皇が自ら政治を行う天皇親政(しんせい)という古代日本のスタイルをお手本にしていましたから、古事記や日本書紀などを熟知している副島が活躍したんです。
 副島はこう言っています。
 「政治や行政を行う者は、まず歴史を勉強して基礎を築くべき。法律や経済の知識や頭脳だけで何とかしようとしている者は、いかにも物足りない」と言っているんですね。
 公家出身の岩倉具視や薩摩出身の大久保利通など、新政府のリーダーたちも新しい憲案を立案する時、歴史上の古い事例に照らし合わせる必要が生じた時には、いつも副島を頼みとして、重宝していたと言われているほどなんですね。

 

マスター:その時、その「時代錯誤」などといって、ディスられたり(「批判されたり」の意)しなかったんですか?

 

富田さん:

いやいや。副島は、歴史を重んじるからといって、現代社会の問題に疎かったわけではなかったんですよ。
 例えば岩倉使節団が海外に行く時の団長・岩倉具視の後任として、副島が外務大臣にあたる外務卿になるんです。
 副島は外務卿時代に、東京で牧場を経営して外国人に肉料理をふるまっていたと言われているんですね。

 

マスター:へぇ~。

 

富田さん:

これは、日本に駐在している公使などとの距離を縮めるための、外交手腕の1つをそうやって発揮しているんですね。
そういった外交官としての、社交術にも長けた副島。
ただ、外務卿を辞めた後は、日本の歴史や中国の学問に詳しかったので同じ佐賀出身、大隈重信の推薦によって天皇の家庭教師役にあたる侍講(じこう)という役職に就任して、火曜日には天皇陛下に、木曜日には皇后陛下に講義したそうです。

 

マスター:はー、すごいことですね~。

 

富田さん:

ただ、副島が先生役という立場から理想的な考え方を陛下にお教えするだけなら良いんですけれども、この理想論を世間に向けて発信して、今の政治を批判しようものなら政権運営サイドにとってはたまりませんよ。
そこで薩摩出身者から「副島を辞めさせろ」という排斥運動が起こるんですね。
 結局、副島は辞職して佐賀で隠居生活を送ろうと、意向を固めます。
そんな時、天皇から「今後も家庭教師役を是非あなたに続けてほしい」という手紙が届き、辞職を思いとどまります。
 副島は78歳で亡くなりますけれども、葬儀の際には、生前に希望していたとおり、その棺は力士20人によって担がれ、祭祀料・お祀りのための資金として天皇・皇后両陛下から、御下賜金まで与えられたということなんですね。


マスター:ほぉー…。トラディショナルとニューウェーブ、両立出来た方と…。

 

富田さん:

副島は、幕末から明治に上手く波をつかんだ方だったんですよね。
あ、スマホにLINEが来ている!
じゃあマスター、ご馳走様。

 

マスター:

あ、は~い。え~御来店ありがとうございました~。
う~ん、私もせめて、ポケベルぐらい、持とうかなぁ・・・。

 

 


 

 

第5回 江藤新平(2016年10月12日放送)

 

 

マスター:やぁ、富田さん、そろそろいらっしゃる頃だと思っていましたよ。

 

富田さん:マスター、最近忙しくて、ここに来る時間を絞り出すのも結構大変なんですよ。

 

マスター:

う~ん、でも「時間は作るものだ」って言うじゃありませんか。
はい。いつもの「WISEブレンド」です。

 

富田さん:

お、いただきます。
あ、そういえば佐賀の偉人の中にも、効率性やスピード感、時間を上手く作り出して活躍した人物が居るんですよ。

 

マスター:お、今週も来ましたね。誰ですか?

 

富田さん:江藤新平です。

 

マスター:江藤新平といえば、法律系の方ですよね。

 

富田さん:そうです。今でいう法務大臣。初代にあたる「司法卿」という役職についた人なんですね。

 

マスター:ほぉ~。例えば幕末期は何をしていたんですか?

 

富田さん:

はい、司法卿になるまだ前、幕末の江藤は、まだ若いですから、政治的に藩を動かす役割を担っていたわけでもなく、かといって、思想的にやみくもに走り回った過激な幕末の志士でもないんですね。
ただ、京都周辺の政治状勢を探る目的で脱藩さえするほどの行動力のある人物だったんです。
 京都では、あの木戸孝允とも出会って情報収集までやっているんですね。
 同時に若い頃は、佐賀で枝吉神陽という先生から古代日本の法律や古事記などをしっかり学んでいたんですね。

 

マスター:そして、時代は維新を迎えるわけですよね。

 

富田さん:

はい、武家時代が終わって新しい政治体制にするため、明治政府は、古代のような天皇中心の国を目指します。 幕末に江藤が学んでいたことは、まさに古代日本の法律や政治の仕組み。それがここで活かされてきたんです。

 

マスター:ほう。

 

富田さん:

最初は、幕末から学問優秀で知られていた同じ佐賀の副島種臣が、国の法律作りの先頭に立ってたんですけれども、彼が次第に外交問題を担当するようになりましたので、江藤に法律作りがバトンタッチされる…。
そういう佐賀の人脈というのが、明治政府内にあったんですね。

 

マスター:でも、簡単には行かなかったんでしょうねぇ。

 

富田さん:これが難しいんですよ。
 当時まだ日本には、今でいう“民法”に相当する法律がないんですよ。そこで、フランスの民法を翻訳して参考にしたんです。
でも、法律というのは、その国の慣習や風土によって長い時間をかけて作られたものですから、翻訳する上で、なかなか理解のできない考え方もたくさん出てくるんですよね。
でも、その時江藤は、翻訳の担当者に「誤訳も妨げず。ただただ速訳せよ」と命じたと言われています。
 合理性と効率性とそしてスピード力、 これでもって明治新政府の下支えになる法律作りをガンガンやっていったんですね。

 

マスター:まぁ、かなりバランス感覚にも優れていたってことなんですかね?

 

富田さん:うん。例えばですね、明治時代の三大ジャーナリストと呼ばれる一人に、徳富蘇峰という方がいるんですけれども。

 

マスター:はい。

 

富田さん:

彼が明治国家に関する歴史書を書いていますが、江藤についてこう言っているんですね。
 「江藤は大隈の才なく、副島の学なく、大木の智慧なきも、この三人の企ての及ばざる機略の持ち主である」
つまり才能や人間力の大隈重信、学問に秀でた副島種臣、智慧にたけた大木喬任。
この3人に対して、江藤新平は機転の利く敏腕な実務官僚肌の有能な人物だ、と評価しているんですね。

 

マスター:へぇー。

 

富田さん:

翻訳作業でも、誤訳をいとわずスピード力を求めたように、とにかく合理的で効率的に物事をスパスパっと裁いていく。 そんな江藤について先輩にあたる副島種臣も「勇気を基本として、そこに知恵の知を加えた人物」だと語っています。
 勇気や行動力があって、そこに知略や機略を兼ね備えてるからこそ、的確に物事を判断して、ガンガン進んでいく、そういうイメージなんですよね。
ただ、江藤は、男の情にも深い人物でしたので、政府に対して不満をもっていた弟子たちのために、東京から郷里佐賀に戻って、最期は佐賀の乱で処刑されてしまいます。
 私たちも普段、仕事・勉強するうえで常に、肩の上に「ミニ新平くん」が乗っかって手元の動きを見られている。
そんな気持ちで仕事・勉強に向かえば、効率的に裁くことが出来て自由な時間もたくさん作ることが出来るかもしれませんね。
かく言う僕も、自由時間があまりないんで行かなきゃ。 
マスター、ご馳走様でした!

 

マスター:あらあら、相変わらずお忙しい人だ。またの御来店、お待ちしています。

 

 


 

第6回 大隈重信(2016年10月19日放送)

 

 

マスター:やぁ、富田さん、またいらっしゃいましたね。

 

富田さん:あぁ、マスター。ここに来ると本当に、落ち着きますねぇ。

 

マスター:

ありがとうございます。
 宮仕えも大変ってとこですか?
はい。いつもの「WISEブレンド」です。

 

富田さん:

あ、いただきます。
そういうマスターこそ「脱サラ組」なんでしょ?

 

マスター:あぁ、そうですね~。サラリーマンもやっていましたし、こう見えて、ラジオやTVの仕事もしていたんですよ。

 

富田さん:

へぇ~。いろいろやってたんですね~。
あ、佐賀の歴史上、幅広い分野で実績を残した人といえば…。

 

マスター:お、今週もきましたね?誰なんですか?

 

富田さん:大隈重信です。

 

マスター:大隈重信は、早稲田を作った人物ですよね。

 

富田さん:

そう。一般的には「早稲田大学の創始者」として知られているんですけれども、でもそれは彼の功績のほんの一部なんです。
 総理大臣を2回のほか、実は外務大臣に至っては5回も経験しています。

 

マスター:へぇ~。

 

富田さん:他にまたマイナーなものとしては「文明協会」の会長とか、南極探検隊の後援会長にまでなっているんですよね。

 

マスター:ほぉ~。政治に教育に文化、南極探検・・・。これ、関連性って?

 

富田さん:

身分制の江戸時代が終わって明治に入ると、憲法によって国民一人一人は、自由で独立的な立場をとれるようになります。 でも国民は権利を得た一方で、自分たちで今後の政治の行く末を考えていく義務が発生したんですね。
そこで国民たちは、議会って何?とか、それぞれの政党の主義・主張の中身などをしっかり理解しておく必要がでてきたんです。
そこで大隈は、憲法を作ったり、議会政治のシステムをスタートさせたり、そういう政治家としての枠組みを作るだけでは足りないんじゃないかと考えたんですね。

 

マスター:ほう。

 

富田さん:

そこで国民の教育に力を入れたんです。つまり大隈の中で、政治と教育っていうのは全く別々の取り組みではなく、深く結びついてる一体的なものなんですよね。
しかも、その教育を、公のものではなく、早稲田という私立学校として国から独立した形で進めていったんです。

 

マスター:なるほど。日本という国も、大きく変わっていった時期ですよね?

 

富田さん:

幕末には外国と結んでいた不平等な条約の内容を明治になって修正する交渉にも成功しますし、日清・日露戦争では、中国・ロシアという大国との戦争にも勝利します。
そこで国民たちは「日本はいよいよ、軍事的にも一等国の仲間入りを果たした」と酔いしれてちょっと浮足立つ、そういう時期が来るんですね。

 

マスター:はいはい。

 

富田さん:

その時、大隈さんは、国民に対して日本という狭い島国だけを見てはいけないと言うんです。
 「世界の中の日本」という自覚が必要だと説いて、文明協会というグループを作って自ら会長となり、世界の事情や世界と日本のつながり、そういうのを広く国民に紹介していったんですね。

 

マスター:う~ん・・・まぁやはり我々凡人とは、視点が違っていたっていうことですね~。

 

富田さん:

大隈は、政党や、対面してる外国といった、目の前の課題と取り組みつつも、もう常にその背後にあるもの、あるいはみんなが気付いてない、ちょっと先の未来、そういうものに目を向けていた人なんですよね…。
そしてもうひとつ大事なことは、その大隈のベクトルがすべて国民に向いていたということなんです。
 大隈の魅力というのはその視野の壮大さ、その大巨人ぶり。
それが何といっても、彼の魅力ですね。

 

マスター:ほぉ~。

 

富田さん:

世界を見ていた大隈だから、南極探検隊の後援会長もやったんです。
 実は、南極には「大隈湾」という名前の湾があったりするんですよ。

 

マスター:

へぇ~。そうなんですねぇ~!


富田さん:

意外なところに佐賀の足跡が残っているんですね。

そういう佐賀に住む僕たち、例えば現実社会で目の前でちょっと嫌なことが起きた時、嫌な奴がいた時、判断に迷った時、自分と対面する課題だけを考えずに、 大隈さんみたいに、その背後にいるみんなのためにどの方向に進むのが一番ベストかというのを広い視野で、例えば10秒だけ考える時間を持つように心がければ、 いつの間にか私たちも人生の風がちょっと違う方向から吹き始めるかもしれないですね。
あ、もうこんな時間だ。マスター、ご馳走様!
 

 

 

マスター:

ありがとうございました~。
じゃあ私も、カップ麺の出来上がりを待ってる間ぐらいは、広い視点をもてるように知恵を絞ってみましょうかねぇ。


 

第7回 久米邦武(2016年10月26日放送)



マスター:やぁ、富田さん、またいらっしゃいましたね。

 

富田さん:マスターこんにちは~。あれ?マスター何やってるんですか?

 

マスター:

あぁ、これですか?趣味のジグソーパズルですよ。
 一週間かけて、じっくりと作っています。

 

富田さん:へぇ~。何ピースのやつですか?

 

マスター:30ピースです。

 

富田さん:(心の声)・・・え?30ピースを、一週間・・・。

 

マスター:はい、いつもの「WISEブレンド」です。

 

富田さん:

(心の声)いい意味で、マスターは緻密なんですね・・・。
あ、緻密で正確といえばマスター、 この人は外せませんよね。

 

マスター:お!今週も来ましたね。どなたなんです?

 

富田さん:久米邦武です。

 

マスター:あの歴史学者の・・・。

 

富田さん:そうです。

 

マスター:どんな生い立ちの方なんですか?

 

富田さん:

佐賀の街なか、八幡小路で生まれ育った人物で、お父さんは江戸時代の佐賀No.1の特産品だった伊万里焼辺りを管理する、産業など財務分野の役人だったんですね。

 

マスター:ほぉ。

 

富田さん:

それで、江戸時代の学問というのは中国の学問が中心なんですけれども、このお父さん、「江戸時代のこの世の中の学者は算数に弱いものが多すぎる」というのを嘆いていたんです。
ですから息子の邦武は、「学者自身が経済や財務のことを知らなくてどうして国の治め方や生き方を説くことができるか!」と、お父さんから小さい時から教えられたというんですよね。
そうやって育てられた久米邦武の若い時期の一番大きな仕事のひとつが、明治4年に岩倉具視の率いる政府の海外視察団の専任記録係に任命されたことなんですね。
 彼は欧米12ヶ国を巡回した時のメモをもとにして、帰国した後ほとんど独力で、100巻分の原稿を執筆してその報告書をまとめたんです。

 

マスター:ええ。

 

富田さん:

それが「米欧回覧実記」と呼ばれる報告書なんですよね。
 後に彼は、こうした経験を積んだ後、国内で歴史学会を牽引するリーダーとして活躍して、あの帝国大学でも歴史教授になるんですね。

 

マスター:ほぉ~。また帝大とはスゴいですね~。

 

富田さん:

凄いのはその論文のタイトルもなんです。
 結構単刀直入で挑発的なタイトルを論文につけていまして、例えば「太平記は史学に益なし」というタイトル。
 「太平記」という書物は物語的な内容だから、歴史学には役に立たないと、もう痛烈に批判しているんですね。
それからもう一つは「神道は祭天の古俗」という論文で、日本古代から天皇の政治と神様・神道を結び付けて解釈されてきたんですけども、歴史学の客観的な立場から正しく考察する必要があると、大胆発言をしたんですね。
やっぱり久米は、歴史の史料に基づいて研究するという歴史学者の真摯なスタンスを追求して、時にはそういうタブーに触れることも恐れなかったんですね。

 

マスター:なるほど。

 

富田さん:

でも、やはり、そういうスタンスに対しては神道の関係者や、保守的な立場の人から反感を買ってしまって帝大教授を結局免職に追い込まれてしまうんですね…。
でもその後、友人が手を差し伸べてくれて、私立学校で歴史の先生をやることになるんですね。その友人というのが、同じ佐賀出身の大隈重信。ですから、私立学校というのが東京専門学校、のちの早稲田大学と。
こんな風に歴史を見る上での久米のスタンスというのは、とにかく感情を排除して歴史の事実にこだわること。その背景には、小さい時に、文系の学者も理系の算数をしっかり学ばないといけない、と言っていたお父さんの財務役人の考え方もあったでしょうし。

 

マスター:はい。

 

富田さん:

欧米を観て回った後、100巻一人でまとめたという、あの作業で見せた緻密さ、正確さ、そういうものもあったんじゃないかと思いますけどもね。

 

マスター:そんな久米の功績の一部が、今の佐賀でも見られるんですよね?

 

富田さん:

はい、明治や大正の頃になりますと、佐賀の歴史を物語る石碑があちこちに建てられて、そこに刻まれた解説文は、結構久米が書いたものが多いんですよ。
 例えばあの、佐賀藩校・弘道館の記念碑。
あとは有田焼で活躍した、深川栄左衛門という方のお墓の墓碑、佐賀市内の石井樋公園にある、成富兵庫茂安を称える碑文や、日新小学校の中の大砲を造るための反射炉の記念碑など。
これらは、石碑に書いてあるタイトルは、鍋島直正や大隈重信など立場のある人や、書が上手い副島種臣が書くんですが、その解説文は、今紹介したもの全て久米が1人で書いているんですよね。
ですから、結構佐賀の歴史を後の世に残すための仕事をしながら長生きして、最期は昭和6年に93歳で他界するということになるんですね。

 

マスター:凄い人生ですねぇ…。

 

富田さん:

お、時間だ!次の現場まで、7分32秒で行かなきゃ!
マスター、ご馳走様!

 

マスター:

富田さんも、久米邦武に負けない位、緻密なお人だ。
 私もジグゾーパズル、この30ピースが完成したら次はいよいよ100ピースに挑戦してみようかなぁ…。


 

 

第8回 辰野金吾(2016年11月2日放送)



マスター:やぁ、富田さん、またいらっしゃいましたね。

 

富田さん:

あ、こんばんは~・・・って!マスター、どうしたんですか、その格好!
 毛糸の帽子にマフラー、手袋、子・牛・寅…十二支をあしらったドテラ!?

 

マスター:ええ、11月に入って寒くなったじゃないですか。この店も古くてスキマ風がひどくて。

 

富田さん:確かに、このお店もかなり年代物ですもんね~。あ、建築と言えば…。

 

マスター:待ってましたよ~。今日は、どなたなんです?

 

富田さん:辰野金吾です。

 

マスター:佐賀を代表する建築家。確か、唐津の人だと。

 

富田さん:

そうです、辰野は唐津城下の生まれ。
そして明治初年に、彼は唐津の洋学校に通い、東太郎(あずまたろう)という名前の英語教師もそこにはいて、唐津にいた時から、海外を意識する機会もあったとは思うんですけれども。

 

マスター:ええ。

 

富田さん:

本格的に建築を学ぶのは東京に出てから。
 工学系分野の専門的な学校の「工学寮」というところを、首席で彼は卒業しました。
そのお陰で政府の費用で海外留学の機会を勝ち取って、27歳でイギリスに留学して、さらに建築学を修得するという、若かりし時代を送るんですね。

 

マスター:洋行帰りのエリートだったんですねぇ。

 

富田さん:

まさにその性格も、もうエリートらしく真面目で堅物。
 彼の名前の金吾という名前にかけて、周りからは「辰野堅固」とあだ名されたほど、堅物だったんですよね。

 

マスター:なるほど・・・。

 

富田さん:

そういった、自分の性格の甲斐もあってか、帰国後は政府の建築技師になったり、公的な立場から工部大学校というとこの教授にもなったりして、これが今の「東大工学部」になっていくんですけれども。

 

マスター:ほうほう。

 

富田さん:

そういう公の立場で、日本建築界を指導していく立場に進んでいくんですね。
でも彼は49歳で依願退職しまして設計事務所を立ち上げて、自営業の建築家に転身することになります。
そこで「辰野式」と呼ばれる独特の建築スタイルを自営業時代に発揮することになるんですけれども。
マスター、明治時代の建物といえばどんな色づかいをイメージしますか?

 

マスター:やはり…煉瓦調ですかね…。

 

富田さん:

ですよね。あの赤い煉瓦の壁に、たまに白いストライプみたいな帯状のデザインが入ったのを目にしません?
あの明治日本らしい、古い煉瓦調のホワイトのストライプが「辰野式」と呼ばれる彼独特の建築スタイルなんですよね。

 

マスター:そうなんですねぇ。

 

富田さん:

ですから彼の代表作と言っていい、東京の玄関口、東京駅もその特徴を兼ね備えて、8年かけて設計建築されたものですし。数年前、あの東京駅も建築当初の姿に戻されましたよね。

 

マスター:この東京駅以外にも辰野の作品は?

 

富田さん:

例えば東京駅が出来た翌年、辰野が設計して武雄温泉の新館とあの龍宮城みたいな独特な形の楼門ができ上がっています。
それからもう少し遡りますが、明治25年という年には日本で初めて、専門家の設計による西洋式の大邸宅が東京永田町に出来上がるんですよ。

 

マスター:はい。

 

富田さん:

これを設計したのは、佐賀市内出身の坂本復経(さかもとまたつね)という人物なんですけれども、残念ながら彼が着工直後に死去したために、完成まで見届ける設計の専門家として白羽の矢が立ったのが、辰野金吾だったんですね。

 

マスター:ほう。

 

富田さん:

そして、その日本初の邸宅というのが、旧佐賀藩主の鍋島邸なんですね。
ただ残念なことに、関東大震災でこの建物は倒壊してしまって、鍋島家は、永田町から渋谷にお引越されましたので、跡地は国の所有になって、もう今は鍋島家とは全く関係のない方が、その跡地には住んでおられるんですね。
 確か、安倍さんという方が今、住んでいるんですけどね。

 

マスター:その、安倍さんとはまさか…?

 

富田さん:今、その跡地が“首相公邸”になってる場所なんですね。

 

マスター:そうなんですねぇ。

 

富田さん:

ですから、こうした日本初というものも含めて、明治・大正の有名な建築物にまつわる、色んな所で辰野金吾の名前が出てくる。
 日本銀行の本店。あれも辰野の代表作なんですけれども、あれを作る時の事務方の主任になっていた人物が、若かりし時、あの唐津で辰野が薫陶を受けた英語教師の東太郎なんですね。
しかしこの太郎さん、これは変名という違う名前で唐津に来ていまして…、本当の名前は、高橋是清という名前なんですね。
 彼はのちに日銀総裁もなるし、総理大臣にまでなる人物なんですね。

 

マスター:は~・・・!

 

富田さん:

ですから彼の建築物には人脈の広がり、色んな繋がりというのがとにかくどんどん見えてくる。
その広がりというのは、唐津から東京、東京からイギリス、そしてまた東京で…。そういった空間的な広がりと、それから立場も、政府の公的な建築家や教育者の立場から、後に自営業者になるという。
 彼の建築家人生の広がりそのものを示す、そういうものなんですよね。
それにしても、マスター、確かにこの店、スキマ風すごいですね。
 冷えてきたので、この辺で失礼します。ご馳走様。

 

マスター:

ありがとうございました~。風邪ひかないように。…ハックション!
ぬぁぁ…ここもそろそろ東京駅並の修復が必要ですかねぇ・・・。

 



第9回 百武兼行(2016年11月9日放送)


 

マスター:やぁ、富田さん、またいらっしゃいましたね。

 

富田さん:

こんばんは~・・・って、マスター!? どうしたんですか、その格好!?
 黒いワンピースに、真っ赤な大きなリボン、ほうきまで持っちゃって・・・。
もうハロウィンは終わりましたよ。

 

マスター:

ああこれですか?県立美術館で開かれている「近藤喜文(こんどうよしふみ)展」を観てきたんですよ。(※現在は終了)
いやぁやっぱり、ジブリの作品はいいですね~。

 

富田さん:ジブリもいいですけど、県立美術館に行ったならぜひ「OKADA-ROOM」も観ないと!

 

マスター:「OKADA」・・・ああ、確か佐賀出身の洋画家ですよね。

 

富田さん:

そうです。岡田三郎助のことですね。
 佐賀出身でもっとも有名な画家と言っていいと思いますけど。
 戦前には第1回の文化勲章まで受章した日本洋画界の巨匠という人物です。
 県立美術館の「OKADA-ROOM」では、その素晴らしい作品を間近で鑑賞することができるんですよ。
そして、佐賀の美術界を語る上でもう一人、どうしても外せない人物がいるんですよ。

 

マスター:お!来ましたね?

 

富田さん:

それが、百武兼行(ひゃくたけかねゆき)です。
 百武は、確かに佐賀出身の洋画家の中で知名度的には、岡田に次いで2位か3位ぐらいですけども、同じ佐賀出身の近代の洋画家の代表格として知られる人物です。
 年齢は、実は岡田より30歳近くも先輩なんですね。岡田の代表作に「裸婦」という大きな作品があるんですけど、西洋画で女性のヌードを描いた最初の日本人画家2人のうち1人がこの百武なんです。
 彼は全国的にみても、最も早い明治のごく初期にヨーロッパの本場で西洋画を学んだ数少ない人物の一人なんですよね。

 

マスター:明治初期に、本場・ヨーロッパなんて、よく行けましたね~。

 

富田さん:

そうなんですよ。特別な環境にあったんです。その理由が鍋島家にあるんですね。10代藩主・鍋島直正公の跡を継いだ11代直大(なおひろ)公は、明治4年にイギリスに留学するために、岩倉使節団とともに横浜を出航します。その時に、実は百武も直大公の随行員として一緒に海外に渡っているんですね。

 

マスター:なるほど。

 

富田さん:

イギリスを軸に各国を遊歴した直大公と行動を共にしながら、明治6年にはウィーンであの佐野常民とも再会を果たしているんです。「博覧会男」の佐野は、 この時ちょうどウィーン万博のため現地入りしていたんですね。ところが翌年、江藤新平が亡くなる佐賀の乱が起きたため、直大公とともに緊急帰国します。しかし、帰国した時にはすでに乱が終結していたため、再び直大公とヨーロッパに共に渡るんです。
 今回は直大公のみならず、そのご夫人も、西洋流の女性のあり方やマナー、嗜みなどを身につけるようにという、明治天皇直々の命を受けられて、直大公とご夫人、百武たちは再びイギリスに渡ることになるんですね。
 夫人は、英語や西洋の手芸などを学ぶ中で西洋画も学びます。
その時、ご夫人が初めて絵筆を握るのにお一人ではちょっと…ということで、そのお相手役に選ばれたのが百武だったんです。これが洋画家・百武兼行のスタートラインになったんですね。

 

マスター:じゃ、百武にとって、絵画はなりゆきで始めたみたいなものですよね。

 

富田さん:

スタートはそういうことです。でも鍋島夫妻が帰国した後も、夫妻の配慮によって百武はパリに残って洋画修業に励むことができたんです。パリ美術学校の教授でアカデミズムの巨匠に弟子入りして、ここで画家としての才能が開花。やがて帰国すると、 今度は仕えていた直大公がイタリア公使としてローマへ赴任することとなり、百武も三度(みたび)お供することになるんです。
しかし、今度は個人的な付き人としてではなく、政府の書記官という公務を帯びての随行だったので多忙な日々をローマで送ることになるんですね。それでも、毎朝出勤前に少しずつキャンバスに向き合う時間をつくるなど、寸暇を惜しんで絵画の制作を進めて、わずか2年足らずで150号クラスの大作を何点も描き上げているんですね。
しかし、百武は、帰国後して間もなく、42歳の若さで病に倒れてしまうんですね。

 

マスター:一気に駆け抜けた人生だったんですね。「虎は死して皮を残す」と言いますが・・・。

 

富田さん:

東京の永田町にあった鍋島邸内には、百武の遺作が壁に飾ってありました。それを見たある少年が触発されて、やがて画家の道を志します。それが、岡田三郎助なんです。岡田は自分の回顧録の中で「郷土の先輩、百武の作品に大きな影響を受けた」と記しているんですね。
 百武は若死にしたために、弟子に直接教えたりなどの影響は残せなかったんですけれども、こういう形で間接的に影響を受けた一世代後の岡田や高木背水、それから、久米邦武の子で洋画家の久米桂一郎といった多くの優秀な洋画家たちが佐賀から輩出されることに繋がっていくんですね。

 

マスター:百武なくして、いまの佐賀の洋画界はありえなかった・・・というとこですか?

 

富田さん:

そう!マスターも、魔女のコスプレもいいけど、もう一度県立美術館に行ってみたら?
じゃあ、ご馳走様でした!

 

マスター:

ありがとうございました。
う~ん、今すぐ行きたいんですが・・・この格好のままだと、まず受付で止められちゃいそうですね~。

 

 


 

 

第10回 伊東玄朴(2016年11月16日放送)


 

マスター:やぁ、富田さん、またいらっしゃいました・・・ハックション!

 

富田さん:こんばんは、マスター。え、風邪ですか? ちゃんと病院に行かないと。

 

マスター:いやぁ、あの白衣と注射が子供の頃から苦手でしてね。

 

富田さん:でも、佐賀のお医者さんは、かなり優秀ですよ。なんといっても、そのルーツとなる素晴らしい人物がいますからね。

 

マスター:お!今週も来ましたね。誰なんです?

 

富田さん:それが、伊東玄朴です

 

マスター:あぁ、佐賀を代表する名医ですよね?

 

富田さん:

そうです。10代鍋島直正公の主治医、さらには徳川将軍家のかかりつけ医にまで栄達して、あの篤姫にも薬を調合した当代きっての幕末日本を代表する医者なんですね。神埼の農民から身を起こして、オランダ商館の医者シーボルトからオランダ語と西洋医学を学んだんです。
 身分制の江戸時代ですけれども、農民であっても特別な功績のある人物などに限って侍に取り立てる「一代侍」という制度があったんですね。一代だから必ずしも世襲とは限らないんですが、農民出身の玄朴も藩主・直正公のお目にとまって一代侍になったんです。29歳の時に江戸で開業し、やがて診療所を併設した塾「象先堂」を開設します。玄朴の腕が評判を呼んで患者は行列、家の前には茶屋や飲食店までできるほどの人気ぶりだったといわれているんですよね。

 

マスター:すごいですね~。でも、「農家の出」ということは、決してサラブレッドではなかった…ということですよね。

 

富田さん:

それが良かったかもしれないんです。例えばこういうエピソードがあります。
 玄朴が開いた塾「象先堂」の「象先」という名前をつけてくれたのは、(宮城県)仙台藩の大槻磐渓(おおつきばんけい)という親友なんですね。
この方、有名な解剖書の「解体新書」を翻訳した杉田玄白と前野良沢からそれぞれ一文字ずつ名前をもらった大槻玄沢(おおつきげんたく)という儒学者の息子にあたる人なんです。
この息子にあたる磐渓さん、若い頃お金に困った時、今の約100万円に相当する10両を貸して欲しいとお願いしたら、伊東玄朴は、利子はいらぬ、借用書もいらぬといって気前よく助けてくれたというんですよね。
 玄朴には敵もいたけれど仲間をすごく大切にする人だったんですよね。それからもう一つ、天然痘予防を目的とする種痘を推進するためのセンターを玄朴たちが江戸に私費で設立した時も、医者のネットワークを活用して医者83名のグループで建てたんです。それを持ち前の人間力と人脈で、私立から公立に切り替えることに成功して、やがてこれが医学教育機関にまで発展する基礎を築いたんですね。
これが今の東大医学部の源流の一つにもなっているんですね。

 

マスター:なるほど。その頃、佐賀の状況はどうだったんです?

 

富田さん:

今、県内の病院のなかで、最も歴史のある病院といえば、佐賀県医療センター好生館。その名付け親は10代佐賀藩主・鍋島直正公なんですね。
 玄朴が育てた弟子たちが、ここでは先生となって佐賀藩の医療教育を推進。
 東洋医学が主流の江戸時代において全国でも例を見ない西洋の医学を必須とした医学校だったんですね。
 当時、特に恐れられた病が致死率20~50%にも上るといわれた天然痘なんです。直正公は、わざと天然痘に軽くかからせて免疫をつくらせる種痘を、 好生館の医者たちが中心となって藩内に広めていくようにと、指示を出したんですね。しかも無料で。 地域の医療に対して行政が責任を持つという社会福祉的な近代医療の先駆けのような事業を、すでに幕末佐賀藩はやっていたんですね。 人を大切にするのが、やはりこの佐賀なんですね。

 

マスター:

なるほど…。ところで、以前から気になっていたんですが、富田さんはいつも偉人たちに会ったみたいに話して下さいますが、何でそんなに詳しいんですか?

 

富田さん:

僕は佐賀に来てまだ8年くらいなんですけども、実は数年前に、いい本に出会ったんですよ。
それが「佐賀偉人伝」。幕末・明治に活躍した県内出身者15人をピックアップして、1人ずつ1冊にした伝記集なんですね。分厚すぎず、薄すぎず、1冊100ページ前後の本なんです。
 僕は大体この本で知ったことを、マスターに聞いてほしくて、いつも来ていたんですよ。
だって佐賀のことを知ると、佐賀が好きになりますし、人に聞いてほしいじゃないですか。
この「佐賀偉人伝」、最前線の研究者が書いた充実の内容なのに、1冊たったの1000円位なんですね。
いつも美味しいコーヒーをご馳走になっているから、これまでのお礼に、マスターにプレゼントしますね。

 

マスター:おお、そうですか。

 

富田さん:じゃあ、今日もご馳走様でした。

 

マスター:ありがとうございました~。立派なご本を頂いたけど、今、必要なのは、ゴホンより、咳止めかなぁ~。

 

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