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県指定(民俗文化財の部)01

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佐賀県重要有形民俗文化財の部

佐賀県重要有形民俗文化財 唐津曳山(からつひきやま)

昭和33年1月23日指定
唐津市西城内 曳山展示場
有形民俗文化財 



 文政の初頭、唐津刀町の石崎嘉兵衛が、塗師大木小助らと共に赤塗りの大獅子頭を作り、それを唐津神社に奉納したのが唐津曳山の初めであると伝えられている。製作年代の最も古い曳山は、文政2年(1819)刀町が作った赤獅子で、明治9年(1876)江川町の七宝丸、水主町の鯱が作られるまで合計15台が製作された。しかし、紺屋町の黒獅子が明治中期に消滅したので、現在14台が保存されている。唐津曳山
 曳山の本体は、いずれも木組を組んでその上に和紙を厚く張り、金銀朱碧などの漆を塗り、四つ車の台車に載せられている。
 毎年11月3日と4日の唐津神社の秋祭に町内の若者たちによって市中を曳き回される。唐津曳山は、一閑張りとしては全国でも類を見ない大きさであるとともに、その意匠は卓越で華麗でもある。

 

1  刀町    赤獅子
2  中町    青獅子
3  材木町   亀と浦島太郎
4  呉服町   源義経の兜
5  魚屋町   鯛
6  大石町   鳳凰丸
7  新町    飛竜
8  本町    金獅子
9  木綿町   武田信玄の兜
10 平野町    上杉謙信の兜
11 米屋町    酒呑童子と源頼光の兜
12 京町     珠取獅子
13 水主町    鯱
14 江川町    七宝丸

 

 

国指定重要無形民俗文化財「唐津くんちの曳山行事」はこちら

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 小川島鯨見張所(おがわじまくじらみはりしょ)

昭和49年2月25日指定
唐津市呼子町小川島
有形民俗文化財 


小川島鯨見張所
 唐津市呼子町の小川島を基地とする玄海の捕鯨の開始については、文禄3年(1594)に当時の唐津藩主寺沢志摩守が紀州・熊野灘から漁夫を雇い、突取法による捕鯨を行わせたのが始まりという。その後、唐津藩の保護下、網による捕鯨が盛んに行われたが、明治維新後は藩の保護が解かれたことにより、鯨組を中心とする捕鯨は衰退していった。
 明治年間に小川島捕鯨株式会社が創設されたが、明治初期に始まった南氷洋での母船式捕鯨は日本各地の近海捕鯨を圧倒し、玄海の捕鯨は昭和36年(1961)をもって終わりをつげた。
 小川島鯨見張所は、山見小屋とも呼ばれ、木瓦葺木造平屋建で、梁間2.96m、桁行7.88m、建坪23.28平方メートルである。小屋組は洋風様式を取り入れた大正初期の和小屋である。窓は沖合を往来する鯨の監視・発見のため、上釣り回転窓が南側に3門、北側に4門取り付けられ、風雨の強い時にも監視できるよう設計されている。鯨の供養塔が、観音堂境内にあり、高さ0.7m、幅0.3mの舟型光背を有する地蔵尊石像で、「文久三亥三月吉日」の銘がある。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 佐賀県内農耕生活用具(さがけんないのうこうせいかつようぐ)

昭和52年3月11日指定
佐賀市川副町大字南里 県農業試験研究センター
有形民俗文化財


佐賀県内農耕生活用具


 昭和40年頃から佐賀県農業試験場によって、県内の農具類、生活用具、古文書類の収集が進められ、その収集資料は約2000点にのぼっている。江戸中期から昭和初期を中心とした資料は体系的に整理され、常設展示されている。
 これらの資料は、馬耕農地帯の佐賀平野、人力中心の白石平野・東松浦郡一帯の資料をはじめ県内各地の農耕生活用具であり、その原形をよくとどめている。特に、佐賀平野のクリーク地帯特有の「クリーク農法」は独特で注目をひく。
 収集されている資料は(1)耕作・耕転用具(2)管理用具(3)収穫・調整用具(4)生活用具の四種に大別される。(1)は耕作、田植え関係の用具(鍬、鋤、馬鍬、田下駄)、(2)は施肥、除草、害虫駆除、揚水、泥土場、運搬関係用具(がんづめ、誘蛾灯、足踏水車、泥土場桶、鞍)、(3)は脱穀、選別、計量、農産加工用具(唐箕、唐臼、千歯、扇風機、手箕、綿くり機)、(4)は農耕生活での衣食住に関する資料(手鏡、行燈、水甕)である。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 荒踊絵馬(あらおどりえま)

昭和54年3月31日指定
武雄市山内町大字鳥海 鳥海天満宮
有形民俗文化財


荒踊絵馬
 荒踊りは、旧武雄邑を中心に伝承されている民俗芸能であり、モッショとカキと呼ばれる二本差しの踊り手が歌詞に合わせて円陣を組みながら群踊する一種の奴踊りであり、その起源については諸説がある。
 絵馬の構図は、瓦葺きの神殿の前に板葺きの拝殿があり、石造鳥居が拝殿の前面に2基建っている。龍と女神をいただいたカンバンが先頭に立って拝殿前まで進み、その後に踊り手が一列になって続いている。先頭に先モッショ3名、後方に後モッショ3名、中間に21名のカキがいて両手を上に上げて腕鉾をつくり両足を踏んばっている。この荒踊りの後に笛2名、大鉦15名、小鉦1名、モリャーシ3名、大太鼓3名と囃子方が続き、この周囲に多くの見物人が描かれている。
 本絵馬は、鳥海浮立の発足を契機に、武雄市山内町立野川内から師匠を招いて催した折りに、奉納された記念絵馬であると伝えられている。本絵馬に描かれた光景は、荒踊りに関する記録が少ない中で貴重であり、当時の風俗を知り得る重要な資料である。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 面浮立絵馬(めんぶりゅうえま)

昭和54年3月31日指定
武雄市武雄町大字武雄 武雄市文化会館
有形民俗文化財


面浮立絵馬
 面浮立の起源については、龍造寺勢と大内勢の戦い、あるいは龍造寺勢と大友勢との戦いの時に、龍造寺勢の中にいた鍋島軍が鬼面シャグマ姿で奇襲をかけて勝利し、戦勝祝いに踊ったとする説など諸説がある。
 絵馬は、縦53.5cm、横119.3cmであり、旗持1名と毛槍2名を先頭に、鬼面をかぶった面浮立の踊り手が2列に並び、笛・大太鼓・鉦の囃子に合わせて勇壮に踊りながら社前の鳥居をくぐりぬけている光景である。面浮立の踊り手は全部で14名が描かれ、先頭付近には踊り手を指揮するサラサラ2名が描かれている。
 本絵馬は富岡天満宮に奉納されており、その由来は明らかではないが、狩野派画家広渡三舟の落款があり、描かれた人物の風俗から明治中期の氏子連中の奉納と考えられる。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 櫛田宮神幸祭絵馬(くしだぐうしんこうさいえま) 

昭和54年3月31日指定
神埼市神埼町神埼 櫛田宮
有形民俗文化財


櫛田宮神幸祭絵馬
 本絵馬に記された太神楽は、記録上の初見は観応3年(1352)足利尊冬から神埼御家人本告執行にあてた下文中にもみられるが、現在でも2年に1回、櫛田宮の春の例祭にあたる4月7、8日に奉納されている。
 絵馬には、太神楽と称する獅子舞を先頭に4基の神輿を中心とする行列が神門を出て、上・中・下の3段に折れ曲がりながら行列をなした神幸の図が描写されている。行列の左右には、町人の晴れやかな裃姿や娘たちの華やかな踊り姿も描かれている。
 絵馬の大きさは、縦159.3cm、横184.3cmで縁枠に「安政五戌午年八月吉祥日」とある。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 野井原上組の水車(のいばるかみぐみのすいしゃ) 

昭和59年3月21日指定
唐津市七山藤川
有形民俗文化財


野井原上組の水車
 野井原上組の水車は、玉島川に注ぐ野井原川から取水し、長さ約36mの車井での流れ水を利用している。いわゆる胸掛水車(中落し)であって、水輪の直径3.4m、幅0.74mの水車を27枚の柄杓と呼ばれる水受が受ける仕組みになっている。水輪には、片側9本の日脚をもち、その回転力を八角形の芯木に伝え、芯木に取り付けられた羽子木で5本の杵を上下させるものである。
 当水車は、いわゆる寄合車であって「野井原上組水車利用組合」によって維持管理されていた。野井原地区の水車に関する資料は少なく、その起源については明らかではない。上・三反田・下の各組に水車があったが、最後に上組の水車のみが稼働していた。野井原上組の水車は、近年まで精米、精粉等に用いられていたが、最近はこうした用途で水車を利用することがなくなり、また毀損や老朽化が進んだことにより、現在は水車に水がかからないように調節し、これ以上毀損が進まないようにしている。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財 大堂神社奉納北前型弁才船模型(おおどうじんじゃほうのうきたまえがたべざいせんもけい) 

平成10年5月11日
佐賀市城内一丁目15-23 県立博物館
有形民俗文化財


大堂神社奉納北前型弁才船模型
 この模型は、大堂神社(佐賀市諸富町)に奉納されていた北前型弁財船の10分の1の模型であり、明治期に特徴的な構造が随所に見られる。同神社は筑後川を河口から9kmほどさかのぼった諸富港に近い場所にあり、この模型は有明海からの海運を物語る極めて貴重な資料である。同種の奉納船の例は全国的にも少なく、その精巧なつくりから、当時の北前弁財船の船型・構造、造船技術を探求する上でも貴重である。
 船底の墨書から、明治19年(1886)に制作されたものと推定される。

 

 

 

佐賀県重要有形民俗文化財
)))田代売薬関連の製薬・売薬・信仰儀礼用具及び文書資料(たじろばいやくかんれんのせいやく・ばいやく・しんこうぎれいようぐおよびもんじょしりょう)  3,181点(附)売薬土産品(行商用)((つけたり)ばいやくみやげひん(ぎょうしょうよう)) 13点 

   平成28年4月28日告示
   所在地 鳥栖市田代大官町408番地 中冨記念くすり博物館
   所有者 公益財団法人 中冨記念財団


 

「田代売薬」は、対馬藩田代領(現在の鳥栖市の東半部と基山町)で江戸時代中期頃から始められたとされる配置売薬業である。公益財団法人中冨記念財団が収集する「田代売薬」に関する資料は、こうした江戸時代中期の始まりから配置売薬が衰退していく昭和40年代頃までの、田代で使用された製薬道具、行商の際の諸用具や携行用具、その他製品に関する様々なものが細かく系統立てて収集されている。

近世から現代まで連続して収集されている本資料の存在は、鳥栖地域及び佐賀県域の産業経済の歴史を考える上で大変貴重である。

また、製薬及び売薬の発祥と変遷の理由が、対馬藩の飛び地であったこと、古くから九州の交通の要衝であったことなどの特異な地域的特色により育まれた、当地の人々の先見性、製造技術や開発力、他藩での商売を可能とした外交力や宣伝力といった気風に根差すところが大きいことをよく反映している。

 さらに、配置売薬の商売方法である、客を直接訪問して薬を預け、使用した薬代だけを精算する「先用後利」という仕組みは、売薬人と客との信頼関係無くして成立しない日本独特のものであり、人々の生活と深く結びつき、日常の生活文化を支える上でも重要である。

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